玄真堂のご紹介理事長コラム

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理事長コラム

当院理事長である川嶌眞人の随筆集です。月に1回のペースで更新しております。
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【2023年】
栄養と自然免疫力(大分合同新聞 2023.02.28)

 新型コロナウイルス感染症も、ようやく致死率はほぼインフルエンザに近いほどに低下し、現在のところ5月8日をもって2類より幅広い措置が取れる「新型インフルエンザ等感染症」から5類に移行し、季節性インフルエンザに準じる扱いになるようである。
 そのような中で国民も各自が感染防御に責任を持ち、また免疫力を上げるような栄養の改善などに挑戦する必要があると思われる。
 その自然免疫力の中でナチュラルキラー細胞が注目されている。故藤田紘一郎東京医科歯科大名誉教授によると、このナチュラルキラー細胞はがん細胞のみならずウイルスや細菌なども真っ先に攻撃し、人間の免疫力を向上させることによって感染症から守ると言われている。
 ナチュラルキラー細胞を活性化する食品としては、日本ではキクイモや大豆、自然薯などが知られている。高知民族の元気長寿を研究している家森幸男京都大名誉教授によると、アンデス産地を原産とするヤーコンが優秀な食品という。
 ヤーコンはキク科の根菜で、天然のオリゴ糖や食物繊維を豊富に含み、生きた善玉菌(ビフィズス菌など)を増やして腸内環境を改善し、さまざまな有害物質を減らすナチュラルキラー細胞を増殖させることで知られている。昨今は県内のスーパーや道の駅などでも売られており、気軽に入手できるようになった。

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田原淳と島田達生先生(大分合同新聞 2023.01.23)

 このたび、日本医史学会より「県先哲叢書」の「田原淳」3部作について書評を依頼されたので改めて3冊の本を読み、深く感動する機会があった。
 この本の著者は大分大学名誉教授、島田達生先生である。解剖学者として先生は、ノーベル賞にも匹敵する田原淳による心臓の刺激伝導系の発見が、いかに今日のペースメーカーや心電図など近代循環器学の発展に貢献したか詳細に述べている。
 田原淳は今日の国東市安岐町の出身で、代々庄屋の中島家の長男であったが、伯母の貞が中津の開業医田原春塘の妻であったことから田原家の養子となった。養父春塘は淳の優秀な頭脳と向上心から東京帝国大医科大(現東京大医学部)に入学させた。1901年、卒業直後は養父の下で開業医を目指すもドイツ留学の熱望は捨てきれず、春塘は所有していた田畑を売却して3年半にわたる莫大な私費留学費用を負担した。
 島田先生は、マールブルク大留学中に田原淳が描いた刺激伝導系の細胞のスケッチ絵が、今日の電子顕微鏡による画像と見事に一致したことを証明。田原を顕彰するNPO法人を設立し、今回の3部作を発行するに至ったのである。
 島田先生がいなければ、田原の偉大なる学問的業績また人間性豊かな人徳、さらに弟子たちや学生に対する愛情などは分からなかったであろうと、ご努力に改めて経緯を表するものである。

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【2022年】
医学史からみたパンデミックとの闘い(大分合同新聞 2022.12.13)

 11月27日、大分市で第122回九州医師会医学会が開催された。「医学史からみたパンデミックとの闘い~温故創新~」と題する講演をする機会を得た。
 新型コロナウイルスの感染者はこれまでに世界中で約6億4900万人、死者数は約665万人と、1918~20年に猛威を振るったスペイン風邪以来のパンデミック(世界的大流行)となっている。スペイン風邪は当時の世界人口18億人のうち5億人が感染し、5千万人もの人が亡くなったとの推計もあり、人類史上最悪のパンデミックでもある。
 このスペイン風邪の正体は何であったのか。米アラスカ州のブレビック・ミッションという村で当時、72任がスペイン風邪で亡くなっていた。1990年代後半、米国の元医師ヨハン・フルティンは、その原因のウイルスを探すために現地まで出向き、村人の協力を得て埋葬されていた遺体から検体を採取し、米軍病理学研究所のジェフリー・トーベンバーガーに渡した。
 トーベンバーガーはPCR法によってウイルスの遺伝子情報の全容を解明し、H1N1型・A型インフルエンザということを明かにした。スペイン風邪も、その後は今日のインフルエンザのワクチンによって予防されているという事実を知ることができる。
 今日のコロナウイルスもやがて風邪のウイルスのように戻るか、あるいは時々強毒性を発揮していくか分からない。だが、いずれ人類は克服していくものと思われる。

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第36回マンダラゲの会を主催して(大分合同新聞 2022.11.10)

 去る10月15日、第36回マンダラゲの会が中津市で開催された。恒例となった大江医家史料館の薬草園の手入れには大勢の市民が参加し、奥塚正典市長の出席も得た。
 その後、西蓮寺に移動し、土手健太郎先生(愛媛県立中央病院元集中治療センター長)が「華岡青洲と弟子たち」と題して特別講演をした。それに先立ち、大江医家史料館の事始めとマンダラゲの会について筆者が講演した。 大江医家史料館は、江戸時代に中津藩医を務めた大江雲沢の屋敷を中津市が整備し、2004年7月に開館。マンダラゲの会は翌05年春に正式に発足し、今秋36回を迎えた。
 マンダラゲの会の由来は、私が和歌山に華岡青洲の診療所兼医学校「春林軒」を訪ねた折に、JR名手駅長より青洲が麻酔に使った主薬としてのマンダラゲの苗を頂き、持ち帰ったことにある。 以来、薬草園の植栽が始まり、多くの市民の方々の協力を得ながら18年間にわたって継続されてきた。
 青洲の全身麻酔による手術は、全国の弟子たちを通して広がったかどうか判明していなかったが、土手先生はインターネットなどを駆使して、四国・中国・九州で230人、大分県は55人の医師たちが実施していたことを明らかにした。
 春林軒の大坂分塾に入門していた大江雲沢たちは、驚くべき先駆的な蘭学者の多様な精神に触れて郷里に戻り、大分県で最初の医学校を創立。多くの医師を教育したものと思われる。

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五條家御旗祭に出席して(大分合同新聞 2022.10.14)

 去る9月23日、14世紀の南北朝の動乱で南朝方の征西将軍を任された懐良親王の筆頭隋従者・五條頼元を始祖とする五條家所蔵の宝物を伝承する行事「御旗祭」が福岡県八女市黒木町の五條邸であり、出席してきた。
 後醍醐天皇や皇子の懐良親王が一節截を愛好していたということから昨年、同市星野村の大円寺で営まれた親王の法要に招かれ、このたびは五條家の歴史ある行事で一節截の献奏を要請され、「中津一節截の会」の伊藤正敏師範と、ご先祖が八女出身の月足賢一氏、私の3人で演奏することとなった。
 五條家は懐良親王の九州平定にあたって最も重責を果たしており、吉野以来親王に同行し、亡くなるまでみとった一族であり、そこには親王関係の369通の五條家文書が保存されている。また、日本で唯一の、征西将軍の「みしるし」である「金烏の御旗」が保存され、いずれも国の重要文化財に指定されている。
 この行事は約50年にわたって継続されており、地元の多くの方々、さらに八女市や久留米市の市長をはじめ、南朝方の中核を成していた菊池市(熊本県)や筑後市の教育長ら多数の方々も列席されていた。
 このように地域の歴史を基にして地域の住民と周辺の方々が連携を続けられている行事に驚くばかりで、改めて歴史の重さを感じるひとときであった。

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継承と革新(大分合同新聞 2022.9.13)

 去る7月8~9日にかけて金沢市において、土屋弘之会長(金沢大大学院整形外科学講座教授)の下に第45回日本骨・関節感染症学会が開催された。
 この学会は1978年、筆者が九州労災病院に勤務していた頃、独協大の星野孝教授の呼びかけの下に13大学の教授たちが集まり、骨・関節感染症学の専門家が研究を発表する会として立ち上げた。当時、骨髄炎など整形外科領域の感染症は抗菌剤の登場とともに消えゆくものと考えられていた。 この方面に興味を持つ整形外科医は極めて少ない中で、研究会は、この感染症の重要性と難治性に着目した。
 第10回の学会(研究会)は、私が最年少の会長として中津市で開催した。その後も歴史を重ね、創設に当たった先生方の多くはこの世を去ったが、今考えれば、ただひたすら骨髄炎の研究に取り組んできた私たちの成果が日本中に広がったことは大きな喜びである。今回の学会でも「感染症治療の新時代~継承と革新~」をテーマに、さまざまな領域の感染について討論されていた。
 人工関節術後感染、脊椎外科術後感染、ガス壊疽、壊死性筋膜炎など、今も昔も感染症は患者さんにとっても医者にとっても、非常に重要な課題であることには変わりはない。診断法や治療法、予防法のさらなる改善を目指して全国の整形外科医が取り組む姿を見て、この学会を創設して良かったと感慨深く思った。

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整形外科的感染症の源流(大分合同新聞 2022.8.11)

 去る5月21日、神戸市で開催された第95回日本整形外科学会学術総会において「整形外科的感染症の源流」という題で教育研修講演を行った。
 筆者が化膿性骨髄炎について興味を覚えたのは1970年、東京の虎の門病院で研修中に1人の女性患者に出会ったことがきっかけである。その患者は、これまでに諸病院で19回もの手術をされていたが、依然として肩関節から膿汁が排出されていた。その頃、掻爬した後、ビニールチューブを関節内に挿入して抗菌剤で持続的に洗浄するという治療法を米国の論文で読み、上司の許可を得て試行してみると、2週間の持続洗浄で排膿が止まり、治癒させることができた。
 何とかこの方法を普及させるために、さまざまな工夫をして「川嶌式局所持続洗浄療法」を開発。虎の門病院で19例の患者に行い、72年から九州労災病院に移り260例の持続洗浄を行ったところ、10%の再発と極めて良好な成績を得ることが判明した。
 当院においては、81年から700例に及ぶ骨髄炎患者に行い、さらに高気圧酸素治療を併用することによって再発は5%に抑えることができるようになった。この治療法は、日本のみならず中国でも応用され専門病院も開設された。また米国の専門書にも紹介され、うれしく思っている。
 まさに「水滴は岩をも穿つ」がごとくの実践が行われたことを報告した。

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日露戦争ゆかりの松山を訪ねて(大分合同新聞 2022.7.5)

 去る5月14~15日、愛媛県松山市で日本医史学会(大会会長・土手健太郎 愛媛県立中央病院元集中治療センター長)が開催された。シンポジウムで「三津同盟と村上玄水」について発表する機会を得たため、かの地を訪ねた。
 松山出身の軍人秋山好古、真之兄弟と俳人正岡子規の生涯を通して、明治という近代国家の形成過程を描いた司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも知られる通り、松山は日露戦争とゆかりの深い地である。1905年、対馬沖における海戦では、東郷平八郎司令長官と秋山真之参謀が指揮する連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を壊滅させ、海戦史上まれにみる一方的な勝利を収めた。
 私が最も驚いたのは学会終了後に実施された学会ツアーでロシア兵墓地を訪れたことである。日露戦争時、松山には捕虜収容所が建てられ、最大で4千人を収容したという。その人たちに対する博愛処遇は県民に徹底されており、外出は自由で温泉、観劇なども許されていた。ロシア兵墓地には、松山で障害を終えたワシリー・ボイスマン大佐ら98人が埋葬されている。
 この墓地は松山大学に隣接しており、ボランティアの方々の清掃活動などにより見事に維持管理されている。ボイスマン大佐の銅像も設置され、毎年3月には慰霊祭が執り行われているという事である。これらの銅像や墓標は祖国ロシアの方角(北)を向いて設置されている。

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天然痘とインカ帝国(大分合同新聞 2022.6.2)

 かつて南米のペルー、ボリビア、エクアドル、チリ、アルゼンチンなどの6カ国にまたがる広大な帝国が15~16世紀にかけて反映し、インカ帝国と呼ばれていた。
 当時スペインは植民地政策を取り、1533年にフランシスコ・ピサロが中心となってインカの首都クスコに侵入、帝国を征服した。それに先だって布教活動と称したスペイン人たちが持ち込んだ天然痘が大流行し、1千万人いたとされるインカ帝国の人口は130万人に激減したといわれている。
 感染症の汚染が広がったのを見計らって、ピサロは200人ほどの部下と共に、瞬く間にインカ帝国を侵略していった。非武装の一般人まで虐殺した極悪非道のピサロは内輪もめの末、リマで暗殺された。独裁者の末路はいつの時代でも同様なのかもしれない。
 一方、インカ帝国の崩壊後も、最後の皇帝アマルはアマゾン川上流の要塞、ビルカバンバに立てこもり抵抗したが捕らえられ、クスコで処刑された。
 インカの人たちはヤーコンや菊芋、アボカド、バナナなど免疫力を高めるさまざまな元気長寿食を食べて、旧インカ帝国の一部は世界でも元気長寿の人たちがいる所とされている。現地で調査した京都大学の家森幸男名誉教授は「長寿の秘密」という本にして出版(1995年刊)している。

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ペストと戦争(大分合同新聞 2022.4.25)

 ペストの本来の発生地は中央アジアで、そこからフン族の民族移動に伴って西方に移動し、6世紀には既に欧州で多くの死者が出たということが知られている。
 その後、何度もパンデミック(世界的大流行)を繰り返したことでもよく知られた感染症である。最も大きな感染は14世紀に欧州で「黒死病」といわれ、欧州の総人口の3分の1から4分の1が死亡したという説もあり、極めて恐ろしい伝染病である。
 1241年。モンゴル軍がポーランドに到達。43年にはウクライナから中央アジア北部にかけてキプチャク・ハン国が建国された。シルクロードを伝って欧州へ移動する時にモンゴル軍と共にペスト菌も移動した。
 モンゴル軍は、ペストで病死した自軍の兵士の遺体を投石機で侵略地の城内に撃ち込むという恐ろしい作戦をくわだてた。今のウクライナにおけるクリミア半島のカッファ城攻略で使用されたという記録がある。驚くべき歴史の相関性を感じる。
 フランス文学者の中条省平氏によると、作家カミュは小説「ペスト」の中でペストが集団を襲った時のことをドキュメンタリー風に描いているが、ナチス・ドイツをはじめとするファシズムが欧州を侵略していることの恐ろしさを諷喩しているものと解釈されている。まさにウクライナで行われているロシアの侵略を考えると歴史は繰り返されている。

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ウイルスと戦争(大分合同新聞 2022.3.21)

 2019年12月、中国の武漢から始まった新型コロナウイルス感染症は2年を経て、20日時点で、世界で約4億6900万人が感染し、死者は600万人を超え、いよいよスペイン風邪と類似してきた。
 改めてスペイン風邪を振り返ってみると、1918~20年に世界中で猛威を振るい、当時の全人口の3分の1に当たる5億人が感染し、5千万人が死亡したとの推計もある。
 当時、第1次世界大戦が始まっており、兵士たちの感染状況は機密事項であった。中立国のスペインでは18年5月の守護聖人サン・イシドロ祭の直後より発熱、消火器症状、全身倦怠感を訴える人が続出。国王アルフォンソ13世や大臣たちも発症し、当時、情報統制がされていなかったため世界中に報道され、スペイン風邪と称されるようになった。
 その数カ月前の3月4日、米国カンザス州ファンストン基地において発熱や頭痛を訴える兵士が続出した。これがスペイン風邪の始まりとされる。ここはカナダガンの越冬地で、カナダガンのウイルスが豚に感染し、体内で変異して人に感染したとみられる。 米国が第1次世界大戦に参戦し、欧州から4カ月で世界中に拡散した。ドイツ軍にも流行し壊滅状態となった。
 コロナがやや収まりかかってきた中で、ウクライナに侵攻したロシア軍が、この戦争を通してウイルスをばらまかないことと平和の到来を祈るのみである。

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大江家のルーツを訪ねて(大分合同新聞 2022.2.15)

 江戸時代には天然痘による感染症が人々を恐怖に陥れた。それに対抗する日本最初のワクチンを入手するために1849年、中津藩の藩医・辛島正庵ら10人の医師たちは、長崎のオランダ商館に種痘ワクチンを入手するために出向き、同伴した子どもたちに接種。急ぎ中津に帰り2千人の子どもたちの接種に成功した。この業績は大江医家史料館に詳しく展示されている。
 昨年末、郷土史の仲間たちと共に大江家のルーツを巡って探訪することになった。中津市の萱津町には740年、宇佐神宮に寄進された大江郷を証明する大江八幡宮があり、隣接する観定寺は当時天台宗で神社の別当として創建された。17世大江憲成氏の説明により歴史の一端を知ることができ、改めて大江郷、大江八幡宮の歴史の古さを思い知らされた。
 さて、南北朝時代となり南朝方の懐良(かねよし)親王が九州入りした際の従者の一人、藤原孝範が大江郷の丸山城に入り、大江孝範と名乗り大江氏の始祖となった。室町、戦国時代も中津を治めていたが、黒田氏封入に伴い、蛎瀬町を中心に帰農した。本家13代が医師となり、その後、鷹匠町系、京町系、西秣博元系と合わせて4系統の医家が存在した。
 私たちは吉祥寺、本伝寺、さらに西秣の大江典昭氏を訪ね、大江家代々の墓が保存されていることを知り、改めて大江一族が中津の医療の発展に寄与した大きさを知った。

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地球環境とブッシュ博士(大分合同新聞 2022.1.12)

 2021年のノーベル物理学賞が昨年12月6日、真鍋淑郎博士に授与された。この真鍋氏が所属していた研究所が米海洋大気局(NOAA)であったことは以前述べた通りである。NOAAの部長であり、後にホワイトハウスのスタッフにまでなったウィリアム・ブッシュ博士について少し述べてみたい。
 日米両政府間で「天然資源の開発利用に関する日米会議」が発足し、1972年より始まった潜水生理部会の米国側議長がNOAAを代表してブッシュ博士であった。私自身は73年のシアトルにおける会議に参加し、そこで初めて国際会議の場で「潜水病と骨壊死」というテーマで発表することができた。
 この会議が単に天然資源を開発するだけでなく、地球環境を守るという会議でもあるということがうすうす分かってきたのが、89年にハワイで開かれた日米潜水技術合同会議の米国側代表であるブッシュ博士の講演を聴いてからである。地球環境全体についての話であった。
 同年、中津の当院で主催した国際セミナーで、NOAAのミラー部長と共に出席したブッシュ博士は、このまま二酸化炭素などが増量すれば地球をグリーンハウス化(温室状態)し、熱が宇宙に放出されずに閉じ込められる状態になり、地球環境に重大な影響を及ぼすだろうと語られていた。
 最近の集中豪雨や台風・竜巻などによる気象災害は、この頃から既に予見されていたのである。

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【2021年】
「三津同盟」について(大分合同新聞 2021.12.2)

 11月18日、中津市は幕末に優れた蘭学者・洋学者を排出した岡山県津山市、島根県津和野町と「蘭学・洋楽・三津同盟」を締結した。
 3市町の首長や教育委員会などの代表が津山市に集まり締結式が行われ、博物館・史料館の交流と共同研究の促進、知的観光の振興と食や物産など多分野交流、連携・協力の強化、の3事業を推進することとなった。「蘭学の里・中津」を起爆剤として、まちづくりを推進してきた私たちにとっても誠に期待に胸が膨らむ思いである。
 津山藩では「宇田川家三代」と呼ばれる洋楽の家系が活躍した。初代玄随は、日本に西洋の内科知識が皆無に等しい時代に「西説内科撰要」という日本最初の西洋内科書を翻訳刊行し、宇田川の名声が一躍天下に広まった。
 2代目玄真は、医学書「医範堤綱」を出版。付図の銅板図は日本初の銅板解剖図とされる極めて正確で精密なもので、中津の村上玄水も、これを参考にして1819年、九州で最も早い次期に人体解剖を行い、詳細な記録を残した。
 私たちの調査で玄水が玄真に宛てた手紙が発見された。それによると、玄水は中津藩の絵師と共に数枚の原図およびカラーの解剖図を描いたが、「医範堤綱」以上のものはないと悟り、そのことを玄真に報告する手紙であった。
 4日には、シーボルトの高弟2人を題材にした舞台「玄朴と長英」が中津で上映される。「蘭学の里・中津」のさらなる飛躍を期待している。

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真鍋淑郎氏にノーベル物理学賞(大分合同新聞 2021.10.23)

 今年のノーベル物理学賞に、気候変動予測の基礎を築いた真鍋淑郎米プリンストン大学上席研究員ら3氏が選ばれた。私は真鍋氏をもう一つの視点から注目している。
 真鍋氏は東大を卒業後、主に研究の場とされていたのが米海洋大気局(NOAA)。また時として海洋研究開発機構(JAMSTEC)でもコンピューターによる気象予報のシミュレーションモデルの開発に取り組んでおられたことを知り、私たちとも大きな関係があったことに気づいた。
 私たちは1972年から政府間パネルである「天然資源の開発利用に関する日米会議(UJNR)」に参加し2年ごとに合同会議を開いて、大気と海洋に関わる問題について情報を交換してきた。米海洋大気局のウィリアム・ブッシュ部長が度々来日されることとなり、その都度、当院で国際セミナーや国際会議を主催し、地球環境が大変大きな問題に直面していることを知った。
 現在も手紙や電話での交流が続いている仲であるブッシュ博士は、その後ホワイトハウスのスタッフとなり、日米の研究支援に多大なご支援を頂いた。
 今になって思えば、このブッシュ博士たちの基礎の多くは真鍋氏の研究理論に基づくものであるということが分かり、真鍋氏の長年にわたる研究成果は、高野長英の名言「水滴は岩をも穿つ」を実証したものである。

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お玉ヶ池種痘所と伊東玄朴(大分合同新聞 2021.09.22)

 中津藩、佐賀藩に始まった種痘ワクチンは大阪では緒方洪庵の適塾を中心に関西一円に、さらに広がっていった。
 その中で漢方医の頑強な抵抗で唯一残されていたのが江戸であった。そこで佐賀藩の伊東玄朴たちは、江戸の人々を種痘によって天然痘から救いたいと強く願望し、何とか公認の種痘所をつくることを計画した。
 折しも蘭方が解禁された1858年、徳川13代将軍家定の症状が重篤となり漢方医では手に負えず、伊東玄朴ら蘭方医が江戸城に呼ばれ、奥医師として招聘された。それを機に玄朴たちは、蘭方は、それぞれの専門医によるチーム医療であることを説き、さらに数人の蘭方医を奥医師にすることに成功した。
 この時、日田出身の勘定奉行川路聖謨を通じて、幕閣に働き掛け、幕府公認の種痘所の設置許可が下りた。神田の「お玉ヶ池種痘所」は、玄朴らが川路奉行の拝領地の使用を幕府に願い出て許可された。
 これらの事情は、「鉄腕アトム」の著者でもある手塚治虫が漫画「陽だまりの樹」で詳細に描いている。彼は大阪帝大付属医学専門部出身の医師で医学博士であり、福沢諭吉の「福翁自伝」を読み、諭吉が適塾入門中に曾祖父・手塚良仙が有能な門人の一人であった-との記述から、この本を描いたと語っている。
 この種痘所はその後、緒方洪庵を頭取とし、中津藩からは田代基徳が洪庵を支え西洋医学所として発展。さらに東京医学校、そして東京帝大医学部となった。

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高野長英・中津潜伏の新資料(大分合同新聞 2021.08.18)

 中津市歴史博物館で企画展「伝染病との戦い~先駆者は九州にいた~」が22日まで開催されている。中津藩などの先駆者の努力と苦労の跡を立証する貴重な資料を展示している。
 その中で私が特に注目したのが、一般初公開となる「高野長英を中津藩へ推薦する書簡」である。長英は1828年、シーボルト事件で長崎を追われる。かくまっていた京都の公家堤家老女瀬河から、佐賀藩御典医の最高位であった伊東玄朴とも相談のうえ、中津藩主・奥平昌高公が刊行した国内初の和蘭辞書「蘭語訳選」の編集主幹であった神谷弘孝(源内)宛てに送られた書簡で、神谷家で発見された。
 中津藩・村上医家の口伝によると、長崎を追われた長英は29年に日田を経て村上家の土蔵に潜伏。7代玄水は家人に一切内緒で、自ら膳を運び、ある夜、小祝浦から舟で脱出させ、6,7月ごろ広島に出たということである。 この時、長英は「最後までやり抜かなければ最初からやらないほうが良い」と蘭語の学問訓を書き残している。
 玄朴と長英はシーボルトの高弟として寝食を共にした仲でありながら、玄朴は歴史に名を残す高名な蘭学者となった。一方、長英は幕府に追われ、最後は自決で生涯の幕を閉じた。両者を題材にした舞台「玄朴と長英」が12月4日、中津文化会館で嵐圭史によって上演予定である。大いに期待したい。

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天然痘とウイルスパンデミック(大分合同新聞 2021.07.10)

 さる6月6日、黒田官兵衛の中津入封に伴い官兵衛の末弟が創建し初代住職を務めた西蓮寺(中津市寺町、現住職・20代黒田義照氏)で親鷲聖人・降誕会法要が行われた。
 新型コロナウイルスはスペイン風邪以来のパンデミック(世界的大流行)となっている。このような事態が過去に発生しているかといえば、奈良時代に天然痘が大流行し、日本の総人口の35%に相当する 150万人が死亡したともされている。国政を担っていた藤原氏の4兄弟も全員が感染死し、国中がパニック状態となっていた。
 聖武天皇は人心の動揺を抑えるため、数回の遷都を行ったが収まらず、再び平城京に戻り、河内(現大阪府柏原市)の知識寺に座する廬舎那仏を見て仏教への帰依を深め、奈良東大寺に廬舎那仏(大仏)の造立を命じた。その鋳造を宇佐神宮が全面的に支援し、752年に完成したといわれる。
 同時に東大寺を総国分寺とし、日本各地に国分寺を建立、仏教を通して人々の心に安寧を与え、同様を抑えることに成功した。その後、人心は安定した状態になり、人々は苦しみから解放されたとされ、お釈迦様の教えに従う者が続出し、ようやく安寧な社会を取り戻した。
 このように感染症の制圧にはワクチンのみならず、人心を安寧にする為政者の努力も非常に重要であることを教えてくれる。

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八面山平和公園慰霊の集いにて(大分合同新聞 2021.06.05)

 去る5月3日、中津市の八面山平和公園で毎年執り行われている日米戦没者慰霊の集いに出席した。コロナ禍ということで出席者を絞り、十分なソーシャルディスタンスを取って簡素に行われた。
 日米両国の国旗が掲揚され国歌が流される中、1945年5月7日、八面山上空で米軍爆撃機に体当たりし墜落させた村田勉曹長と当該のB29エンパイヤー・エクスプレスの搭乗員11人、終戦直前に空中戦で撃墜された加藤茂兵曹長を慰霊した。
 これら2人の日本人と11人の米国人の戦死者を供養するため、土地の所有者・楠木正義氏たちが中心となり慰霊碑を建て、植樹をして講演の整備が始まった。一方、63年には隣接する神護寺の篠原覚瑞住職が涅槃像を発願し、70年に完成した。このような地元の方々の取り組みに、米国からも戦死者に関連する資料が届けられ、72年に記念館が建設された。その後、清源敏孝氏や楠木正一氏によって維持されてきた。
 今回は、在福岡米国領事館のジョン・テイラー首席領事ご一家が訪れ、敬虔なる祈りをささげた。その後、涅槃像に参拝、墜落地点に足を延ばし、28年前、私の友人で当時のホワイトハウスのスタッフであったウィリアム・ブッシュ博士が植樹した桜と記念碑を見学した。中津城の蘭学展示場や福沢記念館なども視察し、大きな感動を得たと言ってお帰りになった。戦争の傷痕は今もなお、平和を願う人々を動かし続けている。

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第33回マンダラゲの会(大分合同新聞 2021.05.01)

 筆者が会長を務める「マンダラゲの会」が、4月17日に中津市の大江医家史料館にて開催された。
 この機会に同史料館が設置された由来について調べてみた。後醍醐天皇の皇子・懐良親王が南朝方の九州の総大将として大宰府入りした際、12人の従者の一人である藤原孝範が豊前中津の丸山城を拠点として、北朝方大友氏の目付け役となり、大江氏の始祖となった。その後も大内氏や大友氏に仕えながら丸山城を治めていた。
 時を経て黒田氏の中津入城に伴い対抗勢力となったが及ばず、中津市の蛎瀬地区を中心に商人や医師、農民となった。蛎瀬の大江氏は医者となって代々医家を継ぎ、奥平時代には御典医として幕末に至った。その中でも鷹匠町の大江医家6代目・大江雲沢は花岡青洲の弟・良平に学び花岡流外科学と薬草学を中津に定着させ、1871年、中津医学校初代校長となった。
 1991年の台風19号で煙突が破壊されるまで続けられていた豊後町の薬草風呂(大江風呂)の薬草は大江家薬草園から提供されていたことが分かったことから、大江薬草園を復元し2005年、中津藩蘭学を学び、研究する「マンダラゲの会」が出来た。
 大江家の屋敷は市に寄贈され、大江医家史料館として整備され、2004年から市民に公開されている。
 第33回となる今回、「大江医家の由来」と「新型コロナワクチンについて」と題し、私が講演した。

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一節截と懐良親王(大分合同新聞 2021.03.25)

 去る2月18日、南朝方の旧皇居といわれる奈良県五條市の堀家に伝わる後醍醐天皇愛用といわれる尺八が700年ぶりに試奏されたことがインターネットなどで紹介された。この尺八は、「一節截」という鎌倉末期から日本独自に発達した尺八の一種である。
 後醍醐天皇の皇子・懐良(かねよし)親王が1342年、薩摩に渡って大宰府に入り、九州の南朝方の総大将として統一を目前にしていたが、北朝方の九州探題に圧迫され72年、大宰府を退去。筑後の矢部(八女市星野村)の大円寺に隠居し、83年、同地で55歳の生涯を閉じた。
 終焉の地は諸説あるが「吉野拾遺」によると、58年、懐良親王が吉野川で尺八を吹いたら「見慣れぬ魚が数知れず踊りあがり・・・」とあり、一節截を愛好していたことがうかがえる。
 当院では前野良沢が趣味で楽しんでいた笛を復活し、13年前に「一節截の会」を結成して毎月練習してきた。このたび、会員の大坪寿氏から、星野村の大円寺で27日、懐良親王の法要があるとの知らせがあった。 会員の一人である本徳照光氏作の一節截を寄贈するため、一昨年開催された一節截全国大会の記念誌を携えて、当会の伊藤正敏師範が大坪氏と共に訪れることとなった。暗い話題の多い中、明るい日差しになってもらえればありがたい。

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天然痘の歴史に学ぶ(大分合同新聞 2021.02.19)

 天然痘はパンデミックに至った最も古くからある感染症の一つであり紀元前1157年ごろに埋葬されたとされるエジプト王ラムセス5世のミイラの顔に天然痘(痘瘡)のアバタが確認されている。
 この天然痘は潜伏期間が14日前後で世界中に繰り返しパンデミックとなって拡散している。日本では富士川游著「日本疾病史」によると735年から1838年の間に58回の大流行があり死亡率は25~30%であった。
 735年、聖武天皇の時代にも大流行し藤原氏一族の最上級の貴族たちが次々と感染し政治から引退を余儀なくされ、人心は同様し奈良の東大寺に大仏が建立され、鎮静を図った。その後も流行するたびに人々は神仏に頼るしかなく、中津でも大新田に白髭神社(痘瘡神)が祭られ各家の玄関口には赤絵(鎮西八郎為朝)が掲げられた。
 中津藩医の辛島正庵(5代目)はわが子を天然痘で亡くしたことから種痘の導入を養子の7代目正庵に命じる。1849年7月、7代目正庵は9人の医師とその子どもたちと共に長崎の出島の医師モーニッケから種痘を接種してもらい、中津藩主の許可を得て2千人の子どもたちに種痘を施し成功した。
 その後、種痘は日本中に広がり江戸には9年後、お玉ケ池種痘所が設立され現在の東大医学部になっている。中津では種痘所が中津医学校から大分医学校、現在の県立病院となった。

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コロナ感染を予防する新技術(大分合同新聞 2021.01.09)

 新型コロナウイルス感染症は今やパンデミックとなって世界中に広がり、大分県でも8日時点の累計感染者数808人、死亡者6人という事態になっている。われわれは心して3密を避け、マスクの着用、手洗い、消毒を徹底しなければならない。
 そんな中で最近の科学技術の進歩は、われわれを心強くする。例えば、わが母校・東京医科歯科大学の真野喜洋名誉教授らが2004年に開発したオゾンナノバブル水が口腔内洗浄剤として認可され、同大学・荒川真一教授らは歯周病予防、当院では感染病巣の洗浄などにも応用されてきた。
 オゾンナノバブル水は強い殺菌力と長期安定性、ウイルスを含む多剤耐性菌にも有効で、人体に無害であることから今後幅広い方面に活用されていくだろう。奈良県立医科大学の研究ではコロナウイルスに30秒間処理するだけで99%以上不活性化することを確認した。東北大学ではこれを噴霧することで感染を防ぐ研究が行われている。
 このように新技術によってウイルスの活性化を防ぐ方法がワクチンも含めて続々と生まれているのは心強い進歩である。また腸内の自然免疫力を高進させる食品としてのヤーコンやアボカド、納豆などにも期待が集まっている。さまざまな力を結集して今年中には、この新型コロナを克服したい。

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【2020年】
村上玄水と宇田川玄真(大分合同新聞 2020.11.27)

 九州で最も早い時期に人体解剖を行った中津藩医・村上玄水の肖像画が発見されたことが2019年1月5日付の本紙で報道された。玄水は解剖に当たって津山藩(岡山県)の蘭学者・宇田川玄真の「医範提綱付図」を参考にしたことがすでに分かっている。解剖付図2枚と色彩解剖図2枚しか残っていないことの理由を書いた玄真宛ての手紙が中津市の村上医家史料館で見つかっている。
 1819(文政2)年、解剖を行うに当たって事前に自ら解剖器具を鍛冶屋に作らせ、藩の許可を得て中津や周辺の医師59人が立ち合い、さらに「解臓記」という記録を残しているにもかかわらず、解剖図が原図と色彩図を合わせて4枚しかないことがかねて疑問に思われていた。
 しかし玄真に宛てた手紙によると、「医範提綱付図」に極めてよく描かれているのでこれ以上描く必要はないと書かれていた。玄真は最新の蘭学解剖書を翻訳し「医範提綱付図」として刊行した。これは医学書としてベストセラーとなり日本中で読まれる解剖書となった。
 余談だが福沢諭吉も学んだ適塾の緒方洪庵の師で漢方医であった坪井信道は、中津に来てこの「医範提綱付図」を見せられ蘭方医転向を決意し、後に江戸三大蘭方医となった。その後、中津藩と津山藩の蘭学者たちは相互に交流し学び合うというきっかけになったのもこの本のおかげである。

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新型コロナと自然環境(大分合同新聞 2020.10.22)

 19日時点で正解の新型コロナウイルスの感染者は4千万人を超え、死者は約110万人とスペイン風邪依頼のパンデミックになってきた。中でもアメリカは感染者800万人、死者20万人を超し、ついにトランプ大統領までが感染して入院をする事態となった。
 感染症のみならず最近の梅雨期の大雨による洪水、巨大台風の来襲、熱帯を思わせる高温の夏などとてつもない環境の変化がわれわれを襲っている。7月6日の国連リポートによると自然破壊や気候変動が続けば新型コロナのような感染症が増えると警告している。
 2002年に発生した重症急性呼吸器症候群(SARS)はコウモリのウイルスに感染したハクビシンを食した人たちに感染が広がり、12年の中東呼吸器症候群(MERS)は中東のヒトコブラクダが仲介をしたウイルスといわれている。
 このように自然環境の変化で野生動物に新たな感染症が発生し、そのウイルスがいろいろな動物に感染、それを取り扱い、食した人間に感染するという経路をたどったのが今回の新型コロナである。「これは人間社会と自然界とのバランスが取れなくなっているからだ」ということをさまざまな学者が私的しているところである。
 人間の健康、動物の健康、環境保全、このそれぞれを重ねてワンヘルスとして捉え、このバランスの上に人間社会をつくっていくことが必要になってきたように思えてならない。

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米国首席領事が八面山へ(大分合同新聞 2020.9.15)

 1945年5月、中津市三光の八面山上空で米国のB29爆撃機が日本軍の戦闘機に体当たりを受け、撃墜された。パラシュートで脱出した米兵3人を三光村の住民が保護し、食事などを提供して福岡の憲兵隊に送った。墜落死した残り8人も手厚く埋葬し、戦後の今日まで追悼行事を行っている。
 去る7月28日、八面山平和公園に在福岡米国領事館ジョン・テイラー首席領事が訪れた。当院から関係者3人が出席し、平和公園の管理責任者である楠木正一氏と共に案内をした。
 B29の墜落地点の碑文を、私の友人でホワイトハウススタッフであったウイリアム・ブッシュ氏が植樹した桜の記念樹を訪れた。さらに平和公園の石碑や記念館などを見学、熱心に説明を聞き、各場所に深く黙とうをささげていた。首席領事が戦争のない世界を構築する努力の必要性を再認識する行為を行っている理由は、父上がB52爆撃機のパイロットだったことであると、後の報道で分かった。
 私も父親が日中戦争で130発の弾丸破片を受けながら激戦を戦い抜いた結果、240人もの部下を亡くしたにもかかわらず功五級金鵄勲章を受けたことが心の負担となり、太平洋戦争で知覧特攻機地の守備隊に志願し、そので戦病死したので、このテイラー首席領事の深い思いに重なり、考えさせられる今日この頃である。

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マイク・バーグ氏と八面山(大分合同新聞 2020.8.13)

 1945年5月7日、宇佐海軍航空隊基地を攻撃に来た米国のB29爆撃機に、中津市の八面山上空で日本の村田勉曹長の双発戦闘機が体当たりして撃墜。村田曹長も墜落した。
 B29の11人の乗員のうち3人がパラシュートで脱出。そのアメリカ兵に三光村の村民がおにぎりなど食事を与え、捕虜として福岡の憲兵に引き渡した。亡くなった8人は埋葬し木碑を建てた。
 八面山の土地の一角の持ち主である楠木正義氏が平和公園を建設。その後、米国の遺族から送られてきた資料を基に記念碑や資料館が建てられ、清源氏一族や楠木氏一族、中津市三光の皆さんと共に毎年、慰霊祭を行っていることはよく知られている。
 その後、遺族の友人であるマイク・バーグ氏が「写真や資料を提供してほしい」といった話が起こり資料を送ったところ、2012年には著書「エンパイヤ・エクスプレスの乗組員達と静かなる山」が刊行され、送られてきた。バーグ氏が15年7月17日に八面山に来訪された折には、中津ロータリークラブの方々と共に桜の木を植樹され、宇佐海軍航空隊基地もご案内した。
 その後、本年6月に、さらに改訂版が私のところに送られてきた。よほど中津における歓待が記憶に残ったらしく、そのことが書き加えられていた。終戦記念日が近くなり、戦争と平和の重さを改めて感じさせられた今日このごろである。

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スペイン風邪と新型コロナ(大分合同新聞 2020.7.8)

 新型コロナウイルスは、わずか数カ月の間に全世界に拡散。7月6日現在、全世界で1100万人を超す感染者、53万人の死者が出ていることを考えると、過去において同様の経過をたどったスペイン風邪のことを思い起こさざるを得ない。約100年前に世界的に流行し、5億人が感染、1700万~5千万人もの死者が出たという、とてつもない感染症の大流行(パンデミック)が起こった。
 「感染症の世界史」(石弘之著)などによると、1918年3月4日、米国カンザス州ファンストン基地の診療所で最初の報告があった。今回のコロナ同様に発熱と頭痛を訴える兵士が殺到。千人以上が感染、48人が死亡したという。渡り鳥の越冬地近くに豚舎があり、鳥インフルエンザがブタに感染、ブタの体内で突然変異し、さらに人に感染して強毒性インフルエンザになったといわれている。
 その後、その兵士たちが第1次世界大戦参戦に伴い欧州に移動し、それが拡散して全境的なパンデミックとなった。結果的に全世界人口の約30%に感染を引き起こし、多数の死者を出している。
 日本においては第1波で約25万7千人、第2波では約12万8千人、第3波で約3700人、合計38万人以上が亡くなっている。このようにパンデミックを引き起こした感染症は2度、3度と繰り返すことを教訓にして今回の新型コロナに備えなければならない。

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感染症の歴史に学ぶ(大分合同新聞 2020.5.25)

 新型コロナウイルスの拡大はとどまることを知らず国際的な大流行(パンデミック)になっている。今や全世界の人々を感染と経済的なパニック状態に陥れ、生活様式の大転換を強いられている。
 このようなパンデミックは何もコロナに始まったことではなく、感染症の歴史を振り返るとたびたび人類に襲い掛かってきている。特にその始まりとしては紀元前430年、ペロポネソス戦争の最中に籠城していたアテネの戦士を感染症が襲い、多数の犠牲者が出た。この疫病が天然痘か発疹チフスともいわれ、感染症の大流行だったことはよく知られている。
 その後、542~543年にかけてビザンツ帝国(東ローマ帝国)で大流行したのがペストである。皇帝ユスティニアヌス自身も感染し、コンスタンティノープルへと広がり人口の半分を失って帝国は機能不全に陥った。
 19世紀末には中国を起源としてペストが世界中に広がった。明治政府は北里柴三郎を調査のため香港に派遣し、ペストの病原菌を発見することになった。北里がペスト菌の抗血清を開発し治療法が確立された。
 天然痘のワクチンのみならずペストの治療薬ができるということは、最終的には感染症を抑制できるということで、世界中が競って新型コロナのワクチンや治療薬を開発している。いずれ新型コロナも制圧され、風邪と同様に人類と共生することになろう。

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天然痘ウイルスと闘った中津藩(大分合同新聞 2020.4.23)

 新型コロナウイルスはパンデミックとなって世界中に猛威を振るい、ついに東京オリンピックも来年の夏に開催延期になってしまった。政治や経済、医療に及ぼす影響は計り知れないものとなってきた。
 インドが原発とされる天然痘(痘瘡)もこのたびと同じように全世界に広がった。「日本疾病史」によると日本でも735年から1838年までの間に58回の大流行があった。死亡率は平均約30%と猛威を振るった。1796年にイギリスのジェンナーが始めた牛痘によるワクチンは、やがて日本にもシーボルトが導入したが失敗した。
 1849年、中津藩医の辛島正庵は長男章司を痘瘡で亡くしたことから一念発起し種痘の専門書を集め、研究会を発足。ついに中津の医師9年とその子どもたちと共に長崎に出向き、出島の意思モーニッケから譲り受けた種痘を子どもたちに接種し持ち帰り、中津藩の2千人に種痘を成功させた。
 中津藩の種痘の成功を受けて、中津の町民の寄付によって中津医学館が開設され、1872年に大江雲沢を校長として医学校となった。その医学校は藤野玄洋らにより1880年、大分医学校へと発展し、現在の県立病院となった。
 このようにウイルスとの闘いが新しい医療情勢や価値を生むということからもわれわれはこの闘いに負けてはいけない。

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伊東玄朴と種痘(大分合同新聞夕刊 2020.3.12)

 1980年、人類を最も苦しめた天然痘の根絶を世界保健機関(WHO)が宣言した時、「いずれ医学の発達によって全ての感染症は制圧されるはず」という言葉を多くの人は信じていた。しかし、天然痘と入れ替わるように次々と新しいタイプの感染症が登場して世界中を駆け巡っている。
 昨年12月以来、新型コロナウイルスによる感染拡大が世界的な問題になっている。県内でも発症が確認され、さまざま行事、催しが次々に中止されている。
 江戸時代においては、天然痘(痘瘡)に30%の子どもがかかり、致死率30%という恐るべき感染症だったことが知られている。シーボルトの高弟でもある伊東玄朴は佐賀藩主・鍋島直正に種痘を提案、藩医・楢林宗建が中津藩と同時期の1849年に種痘を行うことに成功した。藩主はわが子にも接種し、そのことを絵に描かせ、種痘の安全性を全国に広めようとしたが、江戸幕府は漢方医の勢力が強く、困難があった。
 だが玄朴たちは、手塚良仙らと種痘を行うことを続けて1858年、神田お玉ヶ池に種痘所を設立、西洋医学学問所、東京医学校、東京大学医学部と発展させた。ウイルスとの戦いが新たなものを生み出すきっかけとなったことを考えれば、今こそ踏ん張りどきであろう。

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高野長英と中津(大分合同新聞夕刊 2020.2.1)

 中国武漢で発生した新型こり奈ウイルスの肺炎拡大で世界中が大変な事態になっている。ウイルス性感染症というのはワクチンがない場合、人から人へと爆発的に流行して多数の死者を出すことがある。
 その最たるものが天然痘で、日本では奈良時代から発生の記録が残り、幕末に至るまで最大の感染症であった。この天然痘の完全制圧のため1849年、オランダ商館の医師モーニッケが本国から取り寄せた天然痘ワクチンを、中津藩の辛島正庵らや佐賀藩の医師たちが国内に広めた。
 佐賀藩医で特に活躍したのが伊東玄朴である。玄朴は高野長英と共にシーボルトに蘭学と医学を学び一、二を争う高弟であった。
 ところで1828年、シーボルトは国禁であった日本地図の国外持ち出しを図ったとの罪で国外追放となり、多くの門下生も処罰された。長英は長崎を脱出し日田の咸宜園を訪れ、その後は中津藩医村上玄水の蔵に約40日間、かくまわれた。村上家には「最後までやりぬかなければ最初からしない方が良い」という長英のオランダ語の学問訓が残されている。
 幕府の奥医師となった伊東玄朴や長英らが中心となって江戸に種痘を普及させるまでの一連の出来事が演劇になった。5月22日に中津文化会館で、前進座の元看板座長であった嵐圭史氏らが公演する。

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中津のシーボルト(大分合同新聞夕刊 2020.1.4)

 昨秋のことになるが、中津市歴史博物館が新装開館した。国文学研究資料館館長のロバート・キャンベル氏と九州大名誉教授のボルフガング・ミヒェル氏を迎え、中津市と国文学研究資料館との間で、日本語の歴史的典籍の国際共同研究ネットワーク構築計画に関する覚書が交わされた。
 奥塚正典市長も出席した締結式の後、キャンベル氏とミヒェルし氏が講演した。顧みれば筆者は1981年に中津に帰郷して以来、12代続いた村上家の史料について郷土史家の今永正樹氏と協力して研究に着手。村上医家史料館を立ち上げ96年に中津市の史料館に移管することになった。
 2004年には大江医家史料館も整備されたものの、私たちだけで4千点に及ぶ膨大な史料を解読するのはとても無理だった。退職後、中津に帰郷していた元京都大名誉教授の福永光司先生と一緒に史料の解読に当たった。福永先生が死去された後はミヒェル氏に継続調査をお願いし、長年にわたり月に2度、中津に来ていただいた。
 その結果、中津藩の蘭学などの1万点にも及ぶ膨大な史料が少しずつ解読され、このたびこのような国際的なネットワークに公開された。このミヒェル氏の功績はまさに中津におけるシーボルトといっても過言ではない。シーボルトと同じく日本の文化に最も貢献したドイツ人の一人である。

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【2019年】
郷土中津で国際学会(大分合同新聞夕刊 2019.11.22)

 10月下旬、第4回アジア太平洋潜水・高気圧環境医学会を中津で開催した。この学会は中国から発足し2年ごとにアジア各地で開いている。最新の潜水・高気圧医学の研究を発表し、互いに切磋琢磨して医療や研究水準の向上を図るのが目的である。
 私たちと共同で20年間、羊500匹を使って潜水病による骨壊死の作成に成功し予防法についての研究を続けているウィスコンシン大学のソバキン博士の発表やさらに糖尿病性壊疽、ガス壊疽、脳卒中、脊髄神経疾患などにも各国が高気圧酸素治療を応用していることが発表された。
 高気圧環境医学会会員数3万5千人を擁し高気圧酸素治療装置5500基をお提供する、中国の学会創設者である高春錦(ガオウチュンジン)会長も出席された。出席者はいずれもこの医学会の重鎮の方々。今回は私が主催者を務めたこともあり、中国や台湾、韓国、インドのみならず米国、スウェーデン、アルゼンチンからも各代表が一堂に会したことは、大変光栄であり感謝に堪えない。
 学会終了後は全員で中津の音声に漬かり、和やかなレセプションをした。翌日は県立歴史博物館で神仏習合について学び、宇佐神宮に参拝。さらに別府の地獄巡りや温泉も堪能した。一目八景や羅漢寺などを訪れたグループもあり、それぞれが秋の美しい耶馬渓での感動を胸に帰国したに違いない。

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プエルトリコにて(大分合同新聞夕刊 2019.08.02)

 米自治領であるプエルトリコに6月下旬、国際潜水・環境医学会で訪れた。フロリダから東南に1600キロのカリブ海にある島国で、1492年にコロンブスが発見した西インド諸島の一部大アンティル諸島の一角に位置する。その翌年、プエルトリコの現在の首都サンファンに入港した際、スペイン語で「プエルト=美しい港、リコ=豊かな」と叫んだことが地名の由来とされている。
 その名の通り、カリブ海に浮かぶ島国は自然と歴史に満ちている。コロンブスによる発見後、しばらくはスペイン領だったものの、独立戦争の時、米国の介入により1898年からアメリカ合衆国に編入され、自治領となった。公用語は英語とスペイン語で現地の人たちはほぼスペイン語を話している。自治政府の議事堂にはプエルトリコと米国の国旗の両方が掲揚され、議事堂を囲むように米国の歴代大統領の立像もある。
 平均気温25.4度の過ごしやすい環境で、主要産業は観光。ラム酒生産や農業、漁業などが生活基盤である。サンフアンの歴史地区を案内してもらったが、カリブ海の海賊から守るための多くの要塞が世界文化遺産として保存され、美しいスペイン風の街並みが多くの観光客を集めていた。また、米大リーグやバスケットボールなどに多くのプロスポーツ選手を輩出していることでも知られている。

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村上玄水の肖像画(大分合同新聞夕刊 2019.06.27)

 ことし1月、村上玄水の肖像画が発見されたニュースに中津は沸き立っている。13代続く中津藩・村上家7代目の村上玄水は若い頃から天文学や蘭学に興味を持ち、長崎ではシーボルトの周辺の医師たちからもオランダ医学を学んだことで知られている。
 1819年3月8日、藩からの許可を正式に得て、自ら執刀の下に人体解剖を行っている。メスなどの解剖道具も前もって鍛冶屋に作らせ、また事前には動物も解剖するなど用意周到だったことがうかがえる。
 最近の研究で九州では2番目の解剖だったことも分かってきたが、その解剖図と解剖記録は他に類を見ないほど精密であった。解剖により、どの臓器にどんな病気が発症し、どの薬を使って治療すればよいかを初めて知ることができた。オランダ医学が漢方医学と比較して勝るとも劣らぬ、優れた医学であることを立証できるという確信を深めたようだ。
 この解剖には57人もの医師たちが観察に集まり、また中津藩のお抱え絵師である片山東籬や佐久間玉江らによる詳細な解剖図が残っている。中津には線画の原図しか残っておらず解臓文も持ち出されていたが、東京都中央図書館に貴重本として保存されていることが分かり、私がそのコピーを入手して村上医家史料館に転じしている。肖像画とともに見ていただきたい。

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現代のシーボルト(大分合同新聞夕刊 2019.05.27)

 年2回の恒例となっている中津藩蘭学を顕彰するマンダラゲの会は4月中旬、中津市立大江医家史料館で開催された。同史料館では開設以来、参加者も交えて薬草園の手入れや植苗、植え替えなどし、その後、近くの西蓮寺で講演会を開いている。
 前座として「ロコモ予防について」と題して話した当法人のクリニック所長に続き、ウォルフガング・ミヒェル九州大学名誉教授の「中津の蘭学史をみつめて」のテーマで講演した。
 ミヒェル先生は40年前に九州大学文学部の研究生として来日後、教授、学科長、現在は名誉教授。私の推薦で村上医家史料館や大江医家史料館の顧問となり、19年間ご活躍いただいている。母国のドイツ語はもちろんのこと、ラテン語、英語、オランダ語、日本語、中国語など6カ国語に精通し日本の古文書や漢文も解読できて語学の天才ともいえる方である。
 彼はこの19年間、村上医家史料館や大江医家史料館の数千点に及ぶ膨大な医学史料を解読して十数冊の史料集を出版。全国の図書館や研究者に中津市から配布されている。現在も2週間に1度は両史料館に来られて解読作業を続けている。
 “現代のシーボルト”といってよいほど日本の医学史ならびに蘭学史に精通した方である。中津藩蘭学の奥行きの深さを改めて感じた講演であった。

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アンデスの元気長寿食(大分合同新聞夕刊 2019.03.08)

 古代アンデス文明展(8日~5月6日)が県立美術館で開かれている。その間に、アンデスの伝統楽器ケーナをわれわれに指導してくれているリチャード氏らと、ケーナの演奏や長寿食について話をする機会がありそうだ。私も4年前に訪れ、その地に暮らす人々の元気長寿ぶりと素晴らしい健康食に感動し、その長寿食について調査研究した。
 世界三大長寿地域としてアンデスのビルカバンバ(エクアドル)が注目されたのは1955年、米誌リーダーズ・ダイジェストに「心臓病と骨粗しょう症の患者が少ない村」として紹介されたのがきっかけである。その後、世界各国から調査団が訪れ元気長寿の住民が多いことが明らかになった。京都大学名誉教授で医学者の家森幸男氏らも調査に度々訪れ、健康長寿の理由は伝統的な食習慣にあると紹介している。
 この地域のヤーコンはキク科の根菜で野菜として食されているほか、その葉は茶として飲用される。食物繊維やミネラル、さらにオリゴ糖を含んでおり究極のダイエット食材としても近年注目されている。
 形は山芋に似ていて生で食するとシャリッとした梨のような食感と甘い味がする。ヤーコンのオリゴ糖と食物繊維は腸の中でビフィズス菌を増殖させることでも知られている。この菌の増殖によって悪玉菌を減らし、大腸がんなどを予防する効果が期待されている。

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ファビオラ精神と「敬天愛人」(大分合同新聞夕刊 2019.02.02)

 古代ローマ時代の貴族ファビアン家の一員であったファビオラは390年に世界で最初の公立総合病院、さらに”回復期の患者のための”宿泊所(現在のホスピスの原型)を建設した。
 彼女はその病院で、病気や貧困のため不幸な犠牲者となった患者をみとった。彼女は自らの手で病人に食物を食べさせ、いまわの際の病人の口元を水で湿すことなどもした。また彼女自身が肩に抱いて汚物で汚れた患者を運ぶこともあった。彼女の慈愛と思いやりの精神は、後にナイチンゲールが看護学校を設立するきっかけになったこととしてよく知られている。
 1995年4月、私は中津に開校した看護学校にその精神を受け継いでもらいたいと考えた。開校のために大変な努力をされた故向笠寛医師会長の許可を得て「ファビオラ」と名付けさせてもらった。
 ところで明治維新で活躍したリーダの一人、西郷隆盛が「敬天愛人」という言葉を残している。私はこの言葉を昨年の県病院学会のテーマとした。西郷は明治の頃にキリスト教の精神を伝えた「敬天愛人」という本を読み「人を大切にして思いやりの精神を持つことがこれからの時代をつくっていく基本思想でなければならない」と説いている。これこそがファビオラの慈愛の精神であり、われわれ医療人にも共通した理念と思い、テーマとして掲げたのである。

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【2018年】
向笠寛先生、ご逝去(大分合同新聞夕刊 2018.12.15)

 去る11月25日、元中津市医師会長で中津市大貞病院元理事長の向笠寛先生が92歳で逝去された。この先生には私がこのたび旭日双光賞を受章するに当たり大変なご指導をいただいた方だったので一言述べたい。
 先生は久留米大学の助教授を最後に退職し、中津市に精神科単科病院としての大貞病院を1971年に設立された。精神科医としてはアルコール依存症の治療薬を開発し、現在も大手製薬で製造・販売されている。
 その後、中津市医師会長を2期4年務められ、在任中には中津市医師会立ファビオラ看護学校ならびに健診センターを創設した。当時、私も理事として先生の獅子奮迅するお姿を拝見しリーダーとしてのあるべき姿を示していただいた。
 学校名を〝ファビオラ〟と命名させていただいたのは私だったが、この名前が最初は県や国に認められずに苦労した。その時も向笠先生はこの校名を強く推してくれて、そのひたむきな姿勢に私も感銘を受けながらお手伝いさせていただいたことを記憶している。しかし開校直前まで着工できず、周りのありとあらゆる人たちに協力をお願いしてついに開校にこぎ着けた。
 今では中津にはなくてはならない、地域医療を支える看護学校と健診センターとなっているのは、この向笠先生のおかげである。今は心からご冥福をお祈りしたい。

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韓国にて講演(大分合同新聞夕刊 2018.11.12)

 去る10月19日、韓国の仁川国際空港に近い新興都市・松島(ソンド)の国際会議場で韓国救急医学会が開催され、3千人の参加者を前にして講演をさせていただいた。海外からの招待者はペンシルベニア大学のスティーブ・トム元教授と私の2人。トム教授は高気圧酸素治療の基礎的な根拠を深く広く研究していることで有名で、講演内容もそのことであった。
 私は「化膿性骨髄炎に対する高気圧酸素治療」と題して臨床的な効果について話をさせていただいた。1981年、中津で開業後、283例に対して局所持続洗浄療法の前後に高気圧酸素治療を行うと再発率が10%から4.9%に半減した。高気圧酸素治療を併用した方が明らかに治療成績も上がることが判明した。
 なぜ高気圧酸素治療が有効なのかは、トム元教授が詳細に開設していた。ただ、韓国の高気圧酸素治療装置は、日本の約700基に対してわずか30基しかない。現地の関係者は、これからのさまざまな病気の治療に使えると大変期待していたようである。
 講演後、トム元教授ともども魚市場に案内していただいた。新鮮な魚介類でもてなされ、韓国の方たちの温かさに感激した。来年10月にはアジア太平洋潜水・高気圧環境学会を中津で主催することを伝えた。すると韓国の大勢の医師たちから参加の意向を示していただき、心強く感じた。

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老子の思想に思いをはせる(大分合同新聞夕刊 2018.10.09)

 「人間が自然界の一部を支配したりすることができると非常に傲慢になって独力でしたように思う。自分の力は自然の力の一部という謙譲の心が重要である」と前野良沢は言っている。
 前野良沢の思想は、蘭学の鼻祖として誰もできなかった「ターヘル・アナトミア」を翻訳する時に彼を支えた老子がある。人間も自然の一部であるという老子の考え方に、良沢は解剖学を学ぶことによって共感を覚えたのであろう。
 6月から9月にかけて、日本を自然の猛威が襲った。そしてその猛威は年々大きくなっている。線上降水帯がもたらした豪雨、北海道地震による大停電、台風21号による高潮などで大きな被害が出た。関西空港の滑走路水没をはじめとてつもない事象が次々と起こったのだ。地球はこれから先どうなるのかと改めて考えさせられる。
 数年前、東日本大震災に襲われた地を訪れたが高さ70メートルを超える巨大防潮堤がいとも簡単に破壊されているのを見て、人間が自然に逆らって生きることのむなしさを感じた。自然に合わせた生き方をしなければ人類は生き残れないということを教えられた気がする。
 中津に城下町を造った黒田官兵衛が「上善水の如し」と言ったことも、老子の思想に共鳴した柔軟な考え方を示したものと思われる。改めて老子の思想に思いをはせる毎日である。

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マチュピチュの長寿食について(大分合同新聞夕刊 2018.09.03)

 宇佐市の県立歴史博物館で9日まで、「マチュピチュ・古代アンデス文明と日本人展」と題して特別展が開催されている。
 インカ帝国は13~16世紀に南米のペルーからアルゼンチンに至る5カ国を支配した広大な帝国であった。だが1532年のスペイン人の侵攻によって、一瞬のうちに滅亡したことで知られている。マチュピチュと近隣のビルカバンバはインカ帝国がスペイン人と戦った最後の拠点といわれている。
 私がアルゼンチンで開催された国際会議の途中にマチュピチュを訪れて依頼、アンデスの音楽や文化に関心を持っていたことから「マチュピチュの健康長寿食に学ぶ」というテーマで講演を依頼された。世界保健機関が注目し、京都大学が調査研究していたマチュピチュとビルカバンバは100歳以上の長寿者の割合が高く、食事のバランスがよいことでも知られている。
 現地を訪れてみるとアボカドやバナナなど果物が多い。アルパカやヤギから取られたケソというチーズは牛の胆汁が含まれ、タンパク質とカルシウムが極めて豊富である。トウモロコシやユッカ、アワ、ヒエはカリウムと食物繊維が多く、健康に重要な食材が網羅されている。タンパク源としてはほかに現地でクイと呼ばれるモルモット。丸ごと姿焼きにして食べているのには驚いた。

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福沢諭吉と「蘭学事始」(大分合同新聞夕刊 2018.07.28)

 杉田玄白が前野良沢と共に「ターヘル・アナトミア」翻訳に当たっての苦労話をまとめた「蘭学事始」には、良沢を盟主として蘭学を学びながら翻訳作業を進めたことが正直に書かれている。しかし、「解体新書」には良沢の名前が翻訳者として記されていないという不可思議な本である。
 このことの事情を記載したのが「蘭学事始」であるが、玄白の一番の高弟・大槻玄沢が1820年、高岡の長崎浩斉から依頼され写本作成した時になぜか「蘭東事始」と題され、他の弟子たちへの写本も「和蘭事始」と題したようである。その後、玄白は試みに変えてみたがやはり「蘭学事始」がよいと明記した浩斉宛ての手紙が発見されていることは片桐一男著「蘭学事始とその時代」で判明している。
 この「蘭学事始」を福沢諭吉は1869年、神田孝平が湯島聖堂の露店で発見した「和蘭事始」を「蘭学事始」として復刻したが、1890年、医務局長・長与専斎の依頼で再販した。その中の序文で諭吉は「先人の苦心に感極まりて泣かざるはなし」と記し良沢たちの苦労をしのんでいる。
 金沢大学で開かれた北陸医史学会で特別講演を依頼され、「杉田玄白と前野良沢~解体新書を巡って~」を演題に語ったのは今月8日。東京経由で金沢入りしたのだが、集中豪雨の最中。ようやく講演会に間に合うことができたのだった。

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学会にて講演(大分合同新聞夕刊 2018.06.23)

 5月下旬、神戸の国際会議場にて開催された第91回日本整形外科学会があり、「化膿性関節炎に対する局所持続洗浄療法とオゾンナノバブル療法」の演題で講演した。
 川嶌式局所持続洗浄療法は1969年、虎の門病院で私が考案したものだ。70~81年、九州労災病院で256例の骨関節感染症に対してこの療法を適用したところ、再発率10%という極めて良好な成績が知られることとなった。
 全国的に保険採用されたのみならず、米国や中国の専門書にも紹介された。また中国の日中友好骨髄炎委員でも多数の症例が発表されている。
 81年からは当院でも局所持続洗浄療法と高気圧酸素療法を併用して266例の治療を行った。その結果、再発率は約5%まで下がった。
 さらなる改善を目指して、この化膿性関節炎に対して故真野喜洋東京医科歯科大学名誉教授の考案したオゾンナノバブルを用いた局所持続洗浄療法について発表した。
 オゾンナノバブルは強力な殺菌力と洗浄力をもち、琵琶湖の汚水洗浄にも使われた。従来の帰属洗浄療法ではヨード製剤を使用していたが、粘調度が高く回路が閉塞しやすいという欠点があった。オゾンナノバブルに代えることでほとんど閉塞がなくなり、術後管理がしやすいことを報告した。

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第27回マンダラゲの会を開催(大分合同新聞夕刊 2018.05.21)

 中津市立大江医家史料館にて4月中旬、第27回マンダラゲの会を開催した。大江医家史料館と村上医家史料館を中心とする中津藩の医学史、蘭学の歴史を顕彰するために発足させた会で既に14年に及んでいる。
 大江雲沢が実践していたという薬湯風呂を再現する目的で、薬草を春に植栽、秋に採取して金色温泉にて薬湯風呂にしたのが始まりだった。やがて会を重ねるごとに、中津の蘭学や医学史に関する講演会で講師を招くようになった。
 今回は前野良沢が趣味として楽しんでいた一節截(ひとよぎり)という縦笛の音色を聞いてもらう演奏会を企画した。その古楽器を復元、練習している「一節截の会」の方々に演奏してもらった。場所は黒田官兵衛の末弟の20代目にあたる黒田義照住職の西蓮寺で行った。
 今年元日にNHK正月時代劇「風雲児たち~蘭学革命篇」が放送された。「解体新書」を刊行するまでに至った杉田玄白と前野良沢の関係をさらに明らかにするために、私がまとめておいた中津や全国に残る詳細な資料を基に講演させていただいた。
 このようにほそぼそと開催されていたマンダラゲの会が次第に「蘭学の里・中津」のイメージとともに定着してきた。中津城3階にも中津藩蘭学の資料が展示されている。蘭学の里としてますます知られるようになり、観光客増加の一助になれば幸せである。

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広池千九郎と大江医家史料館(大分合同新聞夕刊 2018.04.13)

 中津が生んだモラロジー(道徳科学)の創始者広池千九郎(1866~1938年)生誕記念の集いに招待されあいさつをする機会を得た。毎年盛大に開かれ、今年は3月25日だった。
 千九郎は1880年、中津市学校を卒業後、大分県師範学校の認定試験に合格した。市内の小学校や夜間学校の教師をしながら進脩館(中津の藩校)の歴史史料を研究し、1891年に「中津歴史」を出版した。
 その後、歴史家として「古事類苑」の編集員を務め1912年には東京大学から法学博士の学位を授与された。道徳科学の論文を多数執筆してモラロジー研究所を設立、現在のモラロジー運動の創始者となった。この志は千葉県の麗沢大学やモラロジー研究所を通して全国的に広がり、道徳教育の必要性が唱えられる今、注目されている。
 私が注目したのは「中津歴史」の中に1872年、中津医学校が設立され、大江雲沢を校長として大分県初の医学教育が行なわれたという記録だ。このことを知って鷹匠町にある大江家を調査した結果、華岡青洲の乳がんの手術図など貴重で膨大な史料がある医家であることを突き止めた。新貝正勝市長時代の2004年、市の予算が付き大江医家史料館として開館した。大江雲沢の指導の下に大分県の医学が始まり、更に付属病院医長藤野玄洋によって大分医学校(現在の県立病院)が築かれた。

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日本マイクロ・ナノバブル学会を主催して(大分合同新聞夕刊 2018.03.08)

 昨年12月上旬のこと。明治大学駿河台キャンパスリバティータワーにおいて、日本マイクロ・ナノバブル学会の第6回学術総会を主催した。
 1990年代に徳山高専名誉教授・大成博文氏(ナノプラネット研究所所長)がマイクロバブル発生装置を開発した。広島のカキや北海道のホタテ、三重の真珠の養殖改善に活用したところ、成長促進効果が見られたということからマイクロバブルが一躍脚光を浴びるようになった。
 このマイクロバブルを強制的に圧壊して作製したのがナノバブルという極微小気泡である。東京医科歯科大学の故真野喜洋名誉教授や産業総合技術研究所の高橋正好氏、REO研究所の千葉金夫氏らによって開発され私の母校東京医科歯科大学で既に10回に及ぶ研究会が重ねられている。だが日本の最先端技術として各界から注目され、着実に実用化されている。
 当院の院長は骨・関節感染症領域でこの抗菌力を局所持続洗浄療法に応用し、極めて良好な結果を得たことを報告している。筆者自身も基調講演として、マイクロバブルとナノバブルの応用について話した。
 オゾンナノバブルは整形外科領域において骨・関節感染症のみならず褥創や難治性潰瘍などの治療にも応用されている。その優れた洗浄効果と殺菌力に加えて、生体に対しては副作用がない事を報告した。

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「解体新書」を巡って(大分合同新聞夕刊 2018.01.26)

 NHK正月時代劇「風雲児たち~蘭学革命篇」は「解体新書」の翻訳を巡って中津藩医前野良沢と小浜藩医杉田玄白や中川淳庵たちの協力と多くの人々の支援によって解剖書「ターヘル・アナトミア」を翻訳・出版する過程を見事に表現したドラマで反響を呼んだようだ。
 従来「解体新書」は著者名に前野良沢の名前はなく、杉田玄白らが中心に行ってきたことになっている。鳥井裕美子大分大学名誉教授と県立先哲史料館は大分県先哲叢書(そうしょ)として前野良沢の著作集を編集し、鳥井先生は前野良沢の一代記を出版して彼の果たした偉大な役割を学術的に実証した。こうした専門家のご努力のおかげで中津藩医前野良沢が翻訳の盟主であったことが判明してきた。
 名利を求めない良沢は翻訳が学問的に完成していないなどを理由に名前を伏せさせたことや、当時オランダの紹介本が発禁本になり著者が逮捕されたこともあって、そのリスクを杉田玄白たちが背負い出版せざるを得なかった事情もドラマの中で説明されていた。
 発刊に向けて玄白が友人の平賀源内を通して老中田沼意次の理解を求めるシーンもあった。何事も事を成すに当たっては多くの人の努力と協力があってこそ完遂できることを物語っていた。良沢は蘭学の鼻祖であり、この翻訳で日本の近代化が始まったと言っても過言ではない。

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【2017年】
前野良沢と「解体新書」の謎(大分合同新聞夕刊 2017.12.21)

 日本の近代医学・科学のあけぼのとも言える「解体新書」の出版は杉田玄白(げんぱく)らが著者として知られており長い間、定説となっていた。
 しかし1869年、中津出身の福沢諭吉が再版した杉田玄白著の随筆集「蘭学事始(らんがくことはじめ)」の中に、玄白が、オランダの解剖書「ターヘル・アナトミア」の翻訳の盟主は中津藩の前野良沢(りょうたく)であり、われわれは良沢にオランダ語の単語や文法を学びながら、辞書のない時代に1年半かけて翻訳したことを正直に記している。
 さらに90年、諭吉が「蘭学事始」に序文を加えて再度出版したその中で、「辞書もなしに翻訳した苦労を考えると感涙して咽び泣いた」と書いている。
 にも関わらず「解体新書」の著者名になぜ、前野良沢の名前がないのか。これは医学史上の大きな謎で、この謎解きを含んだドラマが前野良沢を主人公として来年正月の元日の夕刻、NHKテレビの時代劇番組として約90分にわたり放送される。
 それにちなんで31日には中津文化会館で、主演の片岡愛之助らによるトークショーがある。さらには来年2月12日まで「『解体新書』と前野良沢」をテーマにした特別展示が、中津市の大江医家史料館でされている。大江医家史料館では良沢が愛好した一節截(ひとよぎり)という縦笛の演奏会なども行われるということである。

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北京・天津にて講演(大分合同新聞夕刊 2017.11.17)

 北京郊外の河北医科大学付属の教育病院として河北燕达(えんだ)委員がある。10月下旬、同医院で開かれた国際セミナーで特別招待講演をする機会を頂き、「日本における高気圧酸素治療の歴史と適応疾患の現状について」の演題で話した。
 この病院はすでに4千床、さらに介護病床を1万床に拡大するための建設途上であり、中国のすさまじい発展ぶりを目の当たりにした。1993年依頼当院が支援してきた王興義理事長の北京聖斉日中友好骨髄炎医院とも連携して、私の開発した局所持続洗浄チューブを使用した骨髄炎治療と高気圧酸素治療が併用して行われている。
 王先生と私は名誉主任として就任することになり、王先生は河北燕达医院でも骨髄炎の外来に対応することが決まった。
 天津で開催された中国高気圧医学会総会と連動した、アジア太平洋高気圧・潜水医学会にも出席した。同学会理事会の満場一致で私が理事長に指名され、2年後には中津で同学会が開催されることも決定した。本学会に加入する全病院で5千基超の高気圧酸素タンクを有しており、骨髄炎や難治性潰瘍、脊髄神経疾患など広範囲な疾病に対して大いに活用されていることが発表された。
 私は講演の中で、アジア太平洋領域における高気圧医学の発展に、少しでも貢献したいと心から思っていることを述べた。

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全日本病院学会に参加して(大分合同新聞夕刊 2017.10.10)

 金沢市において9月中旬、全日本病院学会(神野正博会長)が開催された。大分県病院協会会長として過去10年以上にわたって毎年参加している学会である。
 2025年には団塊の世代が75歳以上となり超少子高齢化社会を迎える日本において、社会保障システムをどう改革するか活発な議論がなされた。社会保障財源に充当するとされた消費税増税が延期され、年々高度化、多様化していく医療介護に対して、質の向上と安全確保、経営の効率化を図り公共性の高い医療サービスを継続していくためには何をすべきかも、真剣に討論された。
 学会テーマは「大変革前夜に挑め!今こそ生きるをデザインせよ」。当院からは10人が参加し、発表・討論に加わった。特に院長は病院のあり方委員会の一人として、「2025年の医療をデザインする」の演題で力強く発表した。
 医療が社会的共通資本として安心安全を保証することで日本経済の安定に貢献するとともに、医療費の一定程度の自然増を認めていかなければ、高齢化や医療の進歩についていけず、持続可能性が失われてしまう。その論理は大変説得力があり、人々に共感を得る内容であった。
 医療介護費の過度の抑制は将来の希望を奪い、その結果人々は不安解消のために貯蓄に走り、経済発展にも大きな支障を来すということである。

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一節截の合宿を終えて(大分合同新聞夕刊 2017.9.1)

 去る8月19、20日と宇佐市の禅源寺で恒例の一節截(ひとよぎり)の合宿が行なわれ、今後の一節截についての話し合いもあった。一節截は一休禅師が好んだ尺八の”先祖”として知られており、戦国から江戸時代にかけては武田信玄ら武将たちの間でも愛好されていた。だが後に「解体新書」を翻訳出版した中津藩の前野良沢を最後に、次第に廃れて今日の尺八に代わってしまっている。
 一節截を前野良沢が練習し、いとこの簗(やな)次正に伝授し彼がさらに中津藩の医師神谷潤亭に伝えたことで中津の医師たちを中心に広がっていた。その一節截が中津市立村上医家史料館に4本、簗家に1本発見され、それを機に本徳照光氏がこの笛を復元し、7年前から「一節截の会」が発足して当院で練習を積み中津城のひな祭り等様々な催事で演奏している。笛の指導をしていただいている尺八の師範・伊藤正敏氏による素晴らしい音色のために尺八愛好家たちも数人この合宿に参加した。
 最初は吹き方も分からなかったが、千葉県柏市の研究家相良保之氏が当院を訪れ「糸竹初心集」という入門独習書をくださり、当会の細田冨多氏が翻訳しそれを中心に江戸時代の楽譜や吹き方を手探りしながら練習を重ねてきた。全国の愛好家の会が来年11月には当院で開かれる事が決まっているので今回の合宿には一層の励みとなっている。

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フロリダの国際学会で講演(大分合同新聞夕刊 2017.8.4)

 米国フロリダ州ネイプルズ市で6月末に開催された国際潜水・高気圧環境医学会での招請講演のため成田空港から飛び立った。私の発表は1972年以来、続けてきた骨髄炎治療の成績についてだった。
 骨髄炎は発症すると再発を繰り返し、数十年間も膿汁を排出し、時には切断に至る整形外科領域では最も治療困難な疾患である。私は九州労災病院で局所持続洗浄療法に使用するチューブを開発し、72~81年にかけて256例、開業後も773例を治療している。この治療法は国内のみならず国際的な専門書や雑誌にも掲載されている。
 前述の256例の局所持続洗浄療法のみの治療による再発率は11.7%。過去16年間の371例は高気圧酸素のみの治療だと再発率32.8%であったが、再発した101例に局所持続洗浄療法を併用すると再発率を4%に抑えることができることを発表した。特に近年は洗浄液に東京医科歯科大学の真野喜洋名誉教授が考案したオゾンナノバブル水を使用したところチューブの閉塞も解消し治癒率もさらに向上している。
 講演後の夕食会では名誉会員として”眞野・川嶌学術賞”を授与した。その時にオゾンナノバブル水の製造工場が東日本大震災で破壊されたがようやく復興した事を話し、横笛で「花は咲く」を演奏したところ、全員起立で万雷の拍手を頂き大いに感激した。

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米百俵と人材育成(大分合同新聞夕刊 2017.6.22)

 わが母校東京医科歯科大学歯学部の同窓会があった去る5月20日のこと。同大学の学祖島峰徹のゆかりの地で先生についての講演を依頼され、新潟県長岡市など旧長岡藩周辺を巡る事が出来た。
 長岡藩は戊辰戦争の折に官軍との激烈な戦いで廃墟となったが同藩の支藩の三根山藩から米百俵が送られてきた。戦後の復興を担った執政小林虎三郎はこれを食料に回さず国漢学校を開校し人材育成に回す事を提案し、その結果この学校からは多くの人材を輩出した。中でも小金井良精は大変な苦労の末、東京大学の解剖学の教授となり多くの長岡藩出身の人々を東大の教授として育てた。
 島峰も同様に極貧の中で東大に入学したが、学資が続かず停学寸前で日本石油初代社長となった隣人の内藤久寛から援助を受けた。卒業後はベルリン大歯学科に留学、さらにハーバード大など世界各地で歯科の教育課程を見学し、わが母校の前身東京高等歯科医学校の初代校長となった。
 私たちはこの方々の旧跡をたどりながら島峰の父恂斎の墓を訪ね、その墓地で中津出身の横井豊山の墓も参拝することができた。長岡藩は耕読堂という塾を創設し、100年以上にわたり人材育成のため全国から教授を集めた。その中に横井豊山も塾頭として招請されていた。長岡藩による人材育成の奥の深さを知る事ができた旅だった。

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「第25回マンダラゲの会」を開催(大分合同新聞夕刊 2017.5.9)

4月中旬のこと、私が会長を務めるマンダラゲの会が大江医家史料館で開催された。〝温故創新〟の理念の下、中津の歴史を訪ね学びながら新しきものを発見、創造することを目的として2005年から活動を続けてきた。
 今回は「上善水の如し」の言葉で有名な黒田官兵衛が築城した中津城の天守閣の有無について中津地方文化財協議会副会長太田栄氏が講演された。かねて天守閣の有無については中津市において議論の的となっていたが、多くの歴史研究者によって確実に天守閣があったという史実が発見されたということであった。
 当院の川嶌眞之院長はマイクロ・ナノバブル水医療への応用に関して講演。国東市のナノプラネット研究所との共同研究でマイクロナノバブルの発生装置を開発し、それを介護施設の利用者から了解を得て使用すると、従来の介護浴の5.3倍をはるかに超す37倍もの血流量が認められたことを報告した。介護施設利用者の血流改善や浮腫軽減などに役立てられそうだ。
 さらに東京医科歯科大学の故真野喜洋教授らとREO研究所が共同開発したオゾンナノバブル水を難治性潰瘍や化膿性骨髄炎などに応用した経緯も説明。その結果、著名なる殺菌効果と急速なる組織の修復作用が認められ、今後の医療に大いに応用できることを期待すると締めくくった。

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島峰徹とわが母校(大分合同新聞夕刊 2017.4.10)

 我が母校東京医科歯科大学の整形外科開業医部会で去る2月18日、学祖である島峰徹初代学長についての講演を依頼された。母校の前身、東京高等歯科医学校は1928年、新潟県長岡市出身の島峰徹を初代校長とする日本最初の国立高等歯科医学校として誕生。さらに44年には医学部を併設、国立東京医科歯科大学として御茶ノ水駅前に創立された。
 島峰徹は長岡藩医の息子として幼少からの秀才ぶりを注目されていた。だが父親が53歳で早世したため母しげの手で育てられ、困窮のどん底の中から東京帝国大学に入学した。食費も学費も払えない事を見かねた近隣の内藤久寛(後の日本石油初代社長)は学資金のみならず、卒業後もベルリン大学医学部歯学科への留学費も援助した。
 その後、ドイツで歯科医師となって最新の歯科医学を学び数多くの論文を発表。さらに米国ハーバード大学などで歯学教育の実情調査をした後、8年の留学を終えて14年に帰国し、翌年に永楽病院院長(後の東京大学分院)となった。28年には東京高等歯科医学校校長に就任し、東大をはじめ多くの歯科大学に人材供給を支援した。なんと私の母の母校東洋女子歯科医学専門学校にも病院長をはじめ多くの人材を送り、創立を支援していた。わが母校について調査するうちに分かった事で不思議な因縁を感じた。

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和田寿郎先生をしのんで(大分合同新聞夕刊 2017.3.13)

 去る2月4日、心臓移植のパイオニアである札幌医大名誉教授・和田寿郎先生の七回忌に招かれて講演をする機会を得た。心臓を含む臓器移植は今日、あたり前になっている。だが1968年、わが国最初の心臓移植手術を手掛けた和田先生においては、さまざまな困難に直面していた。
 和田先生は、私が代表理事を務めている日本高気圧環境・潜水医学学会の創設に関わられた。73年から今日に至るまで、ほぼ毎年、43年にもわたって国際学会で発表するというきっかけも与えてくださった。94年、私が会長を務めて中津市で開催した日本高気圧環境医学会では、ご出席されただけでなく励ましのメッセージまで頂いたことは、今でも鮮明に思い出される。
 2005年、中津市医師会主催の学術講演会で講演された折には、医師会の先生方々とも和やかに交流していただき、その人柄の温かさを皆で感じることができたひとときであった。12年の一周忌の際には周子夫人より請われ、学会を代表して書いた弔意文が配布されたことも思い出深い。お弟子さんらが和田先生の厳しさと優しさを語り合っていたことも、とても印象的であった。
 このたび7回忌において、偉大な指導者であり、パイオニア精神あふれる先生についての感銘と、尊敬の念をお話することができ大変光栄であった。

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学術総会を終えて(大分合同新聞夕刊 2017.2.7)

 明治大学の玉置雅彦会長主催による第5回マイクロ・ナノバブル学術総会が昨年12月、開催された。
 10年前、東京医科歯科大学の同級生・真野喜洋名誉教授が中心となり、研究会として発足し、私も当初から参加している。次第に出席者が増え学会となり、盛大に開催されるようになった。この学会の面白さは、日本最先端のマイクロ・ナノバブル技術の研究成果を知ることにより、医学領域を越えた最先端技術と医療の連携ができることを理解できる点であり、非常に興味深い学会である。
 現在、日本では骨髄炎の標準治療となっている局所持続洗浄療法に、当院ではこのマイクロ・ナノバブルを応用した。すると骨髄内の凝固血栓や組織片などにより引き起こされていたチューブの閉塞や洗浄液漏れトラブルの減少が顕著だった。近年では人工関節置換術後の感染症の持続洗浄療法にも応用されている。
 また国東市のナノプラネット研究所と共に開発したマイクロ・ナノバブルの介護浴装置を当院の老人保健施設で車椅子対応型足浴装置として整えた。すると従来の介護浴の10倍を超し8時間以上も持続する血流が得られ元気回復などに非常に役立つことが分かった。
 昨年の学会では九州大学の細胞培養系への応用など、他にも最先端の講演があり大変勉強になった。

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【2016年】
藤野玄洋と石川清忠(大分合同新聞夕刊 2016.12.19)

 去る3日、4日の2日間、筆者が代表理事を務める第51回日本高気圧環境・潜水医学会が、東京の日本医科大学において宮本正章会長主催の下、開催された。高気圧医学と潜水医学に関するトップレベルの研究や講演、発表があり、非常に質の高い、内容の濃い学会であった。
 学会が開かれた日本医科大学・橘桜開館で、同大学の歴史について展示が行われていた。同大学の源流である済生学舎、私立東京医学校、そして大学創立に大きな役割を果たしたのが、1871年に開設された中津医学校附属病院の藤野玄洋の門人であった、杵築出身の石川清忠である。1876年、長谷川秦により済生学舎という医学専門学校が開設され、9千人もの医師が明治時代に誕生した。野口英世など世界の医学に貢献した著名な医師たちが含まれている。
 石川清忠は、中津医学校で藤野玄洋から物理、化学、解剖学などの初歩を学び、済生学舎に入学した。卒業後、長谷川の片腕として医師の養成に重要な役割を果たした。しかし1903年、専門学校令により済生学舎の存続は不可能となり、その年に廃校宣言を出すに至った。
 学び場を失った600人の医学生のために、石川は私立東京医学校を創設し、次いでこの医学校は日本医学専門学校となり、今日の日本医科大学と継承されている。

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マンダラゲの会と温故創新(大分合同新聞夕刊 2016.11.07)

 中津市立大江医科史料館周辺で10月下旬、私が会長を務める第24回マンダラゲの会があり、寺町の西蓮寺では講演会を開催した。
 島田達生大分大学名誉教授は田原淳がテーマ。田原の大発見が解剖学・心臓学の歴史を変えたという業績を伝えた。淳は中津の医師・田原春塘の養子になり東京大学を卒業後、ドイツのマールブルク大学に留学。数多くの解剖から、世界初の刺激伝導系の発見をした。この発見により心電計やペースメーカーなどが発明されたのは周知の事実であり、ノーベル賞級の発見であった。
 次いで、この刺激伝導系を現代の最先端医療に応用した佐竹修太郎葉山ハートセンター副院長による「不整脈に対する最新治療~高周波ホットバルーンカテーテル」。最も危険な不整脈の一の原因となり、脳梗塞など命に関わる合併症を引き起こす心房細動の研究をした佐竹氏は、16年をかけて高周波ホットバルーンカテーテルを生み出し米国で大成功を収めた。そして今春、日本でも保険適用になるという画期的な治療法を開発した。
 佐竹氏は既に700例の治験を行っており、臨床レベルでは田原淳と同様にノーベル賞級の業績と言える。彼はこの治療法を自宅の物置小屋でただ一人、開発した。その努力には頭が下がる。この「温故創新」とも言える2人の講演に感嘆の声が上がっていた。

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藤野玄洋について(大分合同新聞夕刊 2016.10.11)

私が会長を務める中津地方文化財協議会の定例研修会で今夏、藤野玄洋についての話をする機会を得た。玄洋は1840年、中津市京町に生まれた。父親は藤野東海という町医者であった。玄洋は広瀬淡窓の咸宜園に入門し、敬天思想を学んだ。58年、尾形洪庵の適塾に入門し蘭学を学び62年には長崎養成所でボードインに外科学、眼科学を学んだ。
 その後、長洲の奇兵隊の軍医となったという説もある。そして71年、中津医学校の開設に伴いその付属病院長となった。しかし、財政上の事情から同医学校の維持が困難となり、当時の馬淵清純町長(中津町)を通じて大分医学校設立建白書を県に提出し設立に専念した。80年、大分医学校は正式に設立され、現在は県立病院となっている。
 玄洋は77年、西南戦争の時、伊藤博文の依頼により、傷病者収容のために下関に「月波楼医院」を設立した。だが戦争が早期終結したため、妻ミチが料亭として経営し大繁盛して「春帆楼」と名前も変えた。伊藤博文など明治維新の元勲たちが頻繁に出入りし、95年には日清講和条約の交渉の場となった。春帆楼はフグの専門店として東京や広島、名古屋、別府などに支店を持つほどになった。
 一方の玄洋は医術に専念し大坂で開業。最後は中津で死亡。夫婦の墓は中津市下小路の安全時にある。

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ハーバード大学の学生たちに中津を案内(大分合同新聞夕刊 2016.9.6)

 サマー・イン・ジャパン2016地域プログラムの一環として8月上旬、広津留真理代表理事から依頼されハーバード大学の学生たちとその関係者たち17人を中津に招待した。
 東九州龍谷高校の生徒たちとの交流イベントの後、古民家レストラン朱華にて私が講師を務めるランチョンセミナーに出席してもらった。
 前野良沢から福沢諭吉に至る中津藩の蘭学の歴史をスライドも交えて英語で説明し、その後、龍谷高校の生徒たちも合流して福澤旧居や中津城も英語で案内した。
 福沢諭吉が一万円札の顔になっている事は知っていても、どんな人物だったかはほとんど知らなかったようである。江戸時代の封建制度が崩壊し、明治維新という近代化が怒涛(どとう)のように押し寄せる中で、欧米を訪問して自らの進む方向を示し、西洋文明を積極的に取り入れた。更には日本を近代国家へと進める人材育成を目的として慶応義塾を設立した。多くの原書を購入・翻訳・出版したほか新聞なども発行し、日本人の思想形成に大きな影響を与えた人物であることを伝えた。
 私は福沢諭吉が訪れたホワイトハウスをはじめライデン大学なども訪れたことも交えて話した。彼らにも感銘してもらえたようで、ガイドのしがいがあった。

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国際学会で学術賞を授与(大分合同新聞夕刊 2016.7.12)

 米国ラスベガスで6月初旬に開催された国際潜水・高気圧環境医学会に出席した。ペンシルベニア大学のクリス・ランバートソン教授により創始された本学会に、私と東京医科歯科大学の眞野喜洋名誉教授は1975年からほぼ毎年参加してさまざまな論文を発表してきた。初期の学会は潜水病や骨壊死(えし)の研究発表を主体としていたが、20年ほど前から高気圧酸素治療の演題も半数を超えるようになった。例えば糖尿病性の難治性潰瘍、突発性難聴、脳卒中、脊髄神経疾患、一酸化中毒、スポーツ障害などさまざまな分野で研究発表が行われる。今は出席者も増え、世界中の研究者が発表する国際的な学会となっている。
 この学会は2014年に亡くなった眞野名誉教授を顕彰するため、昨年、若き科学者や医師の研究を奨励する六つ目の国際学術賞”ヤング・サイエンティスト賞”を創設した。世界への貢献を認められた証しであり、日本人として初めての名誉ある学術賞である。
 私は今年の本学会の夕食会で、潜水漁民の潜水病を研究しているカリフォルニア大学の若き研究者グループにこの賞を授与するプレゼンターを努めた。故眞野名誉教授が愛した桜に思いをはせ、しの笛で”さくらさくら”の演奏を添えて学術賞を差しあげた。天上の彼もさぞや喜んでいるであろうと思う。

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中国から届いた治療専門書(大分合同新聞夕刊 2016.6.18)

 1993年以来、毎日のように中国の河南省から王興義先生とその一族の方々が当院に研修で訪れるようになった。日本の骨髄炎の標準的治療として整形外科の専門書や米国の専門書にも紹介されている、私が考案した川嶌式局所持続洗浄療法の治療法を勉強するためである。
 王先生は河南省と北京に骨髄炎治療の病院を設立し、北京ではさらに200床を超える骨髄炎専門の病院も建て、中国全土から多くの患者さんが来院しているという。
 こうした取り組みに対して、当院は中津ロータリークラブと共に治療用機器のセットを贈るなどの支援活動を続けてきた。
 そしてこのたび、これら中国の病院で理事長を務める王先生とご子息の王偉院長らを編集主幹として、難治性骨髄炎を伴った骨折の治療法などを解説した専門書が北京から届いた。私が開発した洗浄療法や高気圧酸素治療なども取り上げられ、大変光栄に思う。
 この書籍は、交通事故などで骨折を合併した難治性の骨髄炎の治療に対して、洗浄療法を応用、さらに別の手法も取り入れながら、極めて多くの難治性の症例を治療した実績が記載されている。
 困難な時期を乗り越えた王先生は、中国では骨髄炎治療の第一人者となり、他にも5冊の専門書を執筆している。そのご努力には頭の下がる思いである。

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倉成龍渚、雲華上人と頼山陽(大分合同新聞夕刊 2016.2.26)

 筆者が会長の中津地方文化財協議会で1月、神戸輝夫大分大学名誉教授が「雲華(うんげ)上人と倉成龍渚(りゅうしょ)」と題し講演をされた。
 豊後竹田に生まれた雲華は叔父である日田の高僧釈法蘭の下で成長し、詩学と仏教学の教えを受け19歳の時、姉の嫁ぎ先である中津の正行寺に跡継ぎに迎えられた。雲華は才能を見込まれて京都の高倉学寮に籍を置き、教学と講演に励む学僧であった。29歳の頃には博多の亀井南冥(なんめい)やその一族に学び漢詩の添削を受け、詩作と書画の活動を本格的に開始した。雲華は広島の頼春水とその子山陽などとも交流した。大谷大学に残されている雲華の講義録を見ると、真宗教学以外の一般の仏教学にも深い学識を持っていたことが分かる。その学問と教養の深さから日田の広瀬淡窓らとも交わった。頼山陽は1818年に淡窓の元を訪ねた後、雲華と共に日田から山国を経由して中津を訪れ、耶馬渓図巻記を描いている。
 ただし耶馬渓を最初に紹介したのは、1794年「耆闍崛山記(ぎしゃくつせんき)」を著した倉成龍渚。中津藩の進脩館教授で、雲華も師事していた儒学者である。倉成が耶馬渓の自然美を描いた詩を頼春水に示したことが、山陽の耶馬渓訪問のきっかけになった。
 雲華や倉成龍渚、頼山陽が耶馬渓を天下に広める重要な貢献をしたことを知っておきたい。

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浄喜寺を訪ねて(大分合同新聞夕刊 2016.1.26)

 中津市の村上医家史料館が1982年3月8日に菊池次郎館長(村上記念病院理事長)のご尽力で開館して以来、約2千点の資料が収集され、ウォルフガング・ミヒェル九州大学名誉教授らによって解読されている。昨年10月から今月11日まで開催された「医は仁術」(北九州市立いのちのたび博物館)にも村上家の資料が多く展示されていた。
 この博物館を昨年末に見学した折、村上医家の初代・村上宗伯の出身母体である浄喜寺(行橋市)にも足を運んだ。村上家の遠祖は村上天皇の第6皇子源良国とされる。良国から数代を経た良成が仏門に入り蓮如上人の直弟子となり、浄喜寺を建立。2世良祐、3世良慶と名乗った。
 良慶は顕如上人の直弟子となり、石山合戦では織田信長方の大軍を向こうに大奮戦し、顕如の子の教如上人の危機を救い軍功を立て法院大僧都に任ぜられた。細川忠興が帰依した良慶には寺領300石が寄進され、小倉城築城の際は総監督の大役を仰せつかった。
 郷土史家と共に訪ねた浄喜寺はまるで城郭のような風格ある大本堂であった。村上水軍の拠点ともいわれる由縁の井戸も存在していた。この寺の5世蓮休の三男良道(後の宗伯)は大坂の古林見宜に医を学び、中津で初代の医者として開業した。そして現在もその村上家は医家の家系として13代に及び、連綿と受け継がれてきている。

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【2015年】
国際学会で草の根交流(大分合同新聞夕刊 2015.12.16)

 私が理事長をしている日本高気圧環境・潜水医学会が11月中旬、前橋市の群馬大学で開催された。連動して同大学で開かれたアジア太平洋潜水・高気圧環境医学会は2013年に中国で開いたのが最初。私が主催者となった今回のアジア太平洋の学会に向けては昨年、中国・鄭州で準備会をした。中国のほかオーストラリア、台湾、インド、日本の代表者たちが集まる国際色豊かな話し合いである。
 発展途上国ではまだまだ欧米や日本のように基礎研究も十分に行われていない。そのため高気圧酸素治療の実際や潜水病の基礎、臨床の情報交換を―と、日本での学会開催になった。
 アジア太平洋の学会当日、米国からは国際潜水・高気圧環境医学会理事長のジョーンズ氏、ヨーロッパからはスウェーデンのカロリンスカ大教授のリンド氏も出席した。そして翌日には中津市で国際セミナーがあり、両氏のほか中国・上海の上海交通大、九州大先端医学研究所、宇宙航空研究開発機構(JAXA)、大分大などからさまざまな分野の専門家たちが、大変興味深い研究を次々に披露した。
 アジアや欧米の友人たちが和気あいあいと交流する姿を見ていると、われわれ民間の医学者や科学者が草の根で交流することで、世界平和の道に少しでも貢献できるのではないかとの思いを、あらためて深くした。

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地域医療構想について(大分合同新聞夕刊 2015.11.9)


 厚生労働省が「地域医療構想策定ガイドラインに関する検討会」(2015年3月)でまとめた構想に基づき、一般病院における入院病床数は最大20万床削減されることが大きく報道された。大分県や各市町村単位でもこの構想について協議なされている。
 県内では団塊の世代が75歳以上となる25年までに病床数22%削減、特に県北では35%削減という構想が検討されている。9月に札幌で行なわれた全日本病院学会で、厚労省高官は「病床数の削減を優先させるのではなく、各地域の実情に合わせた医療の持続可能な病床数を検討すべきだ」と言っていた。
 しかし現実には、「削減ありき」になってしまうのではないかと危惧している。団塊の世代が75歳になる25年には、がんや心筋梗塞、脳梗塞、大腿骨頚部骨折(だいたいこつけいぶこっせつ)や脊椎圧迫骨折などにより、むしろ病人は増え続け、35年頃にそのピークを迎える事になりそうだ。
 そうした見通しにもかかわらず急性期病床、慢性期病床とも減らすようなことがあっては、再び医療崩壊を招き、患者のたらい回しや高齢者の切り捨て医療といった事態も予測される。
 国の膨大な借金という財政難から計画された病床削減と推測されるが、第一に国民の安全安心な医療・介護の体制づくりが必要ではないかと考える。

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東日本大震災の被災地を訪ねて(大分合同新聞夕刊 2015.10.15)


 今夏、仙台市で開催された宮城県臨床整形外科医会で最新の高気圧酸素治療に関する講演をしたのを機に、東日本大震災の被災地を再び訪ねた。
 向かったのは、津波で壊滅的状態となっていた東松島市のREO研究所のオゾンナノバブル工場。千葉金夫社長は東京医科歯科大学の故真野喜洋名誉教授と共に、オゾンナノバブルと酸素ナノバブルという300種類の細菌を殺菌できる先端的な液体を製造した。
 殺菌力は塩素の約30倍ながら、毒性は全くない。糖尿病性難治性潰瘍や骨髄炎の局所持続洗浄療法などに広く応用され、最先端医療として治験が進んでいる。九州大学の大平猛教授が主宰するマイクロ・ナノバブル学会も毎年開催されるようになった。
 壊滅状態だった工場はようやく生産再開までこぎ着けて、医療のみならず養殖岩ガキのノロウイルスの殺菌、仙台笹(ささ)かまぼこの製造過程における殺菌など、食品部門でも広く活用されている。しかしながら工場はいまだに5mのかさ上げ工事が続けられ、完全な復興には至っていない。
 この工場の近くで、宮城県有数のブランドとして知られている白謙かまぼこ工場では、食中毒予防の殺菌にナノバブルが使用されている。ここで販売中の笹かまぼこを購入し職員たちとおいしさを味わえたこともうれしかった。

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モントリオールの学会(大分合同新聞夕刊 2015.7.29)

 去る6月18日から20日までカナダのモントリオールで国際潜水高気圧環境医学会が開催され、「減圧性骨壊死(えし)の治療」「化膿(かのう)性脊椎炎に対する高気圧酸素治療」の論文を当院川嶌眞之院長らが発表した。
 カナダ、アメリカでは糖尿病性難治性潰瘍の増加に伴い急速に高気圧酸素治療装置の台数が増え、患者が切断を免れる、または創傷の治癒が早いと評価されて保険適用対象になり、今はそれが世界的な流れとなっている。そんな中で最先端の高気圧酸素治療の基礎的な研究が数多く発表され、内容の濃い学会になった。
 最終日の夕食会。恒例の学会表彰では五つの学術賞に加え、若き科学者に対する「ヤングサイエンティスト賞」の授与式があった。日本高気圧環境・潜水医学会の前任の理事長だった故・眞野喜洋東京医科歯科大学名誉教授の名前入りの賞で、私が提案者であることから栄誉あるプレゼンターを仰せつかった。
 「水滴は岩をも穿つ」という言葉がある。若い時はやりがいがないと思われる未知の仕事や研究を指示・指導され戸惑うことも多い。しかし、それを拒まずコツコツと続けることで思わぬ世界が広がってくることがある。これはそんな地味な研究に勤しんでいる若い科学者を応援・支持するために、今年から同学会に新設された賞である。

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大坂と中津を結ぶ医学史(大分合同新聞夕刊 2015.6.27)

 神戸のポートピア国際会議場で5月下旬に開催された第88回日本整形外科学会学術総会(会長・吉川秀樹大阪大学教授)において、「大坂と中津を結ぶ医学史」と題して講演する機会を得た。
 大坂と中津を結ぶ医学史を考えてみると実に多くの中津人が大坂にお世話になっている。江戸時代にあっては大坂で中津の人々は教育され、育成され、大きく成長していった。大坂はその意味で、中津の人材育成の中心地ともいえる役割を果たしていた。
 例えば13代続いている村上医家の初代良道は、大坂の古林見宜(ふるばやしけんぎ)に医学を学んだ。1640(寛永17)年に免許皆伝を受け、村上宗伯と改名して中津市諸町に開業し、中津藩医・村上家の開祖となった。村上医家史料館には免許本2冊が展示されている。
 1871(明治4)年には、中津医学校取立方となった大江雲沢が華岡医塾の大坂分塾「合水堂(ごうすいどう)」に入門し、華岡準平に学んだ。大江医家史料館には華岡青洲の画像や華岡家からの手紙が保存されており、乳がんの手術図や腫瘍の所見図が展示されている。
 さらに、緒方洪庵の適塾は医学史上に大きな影響を与えることになった中津人達11人を育て、藤野玄洋(大分医学校の創立)、田代基徳(整形外科の開祖・田代義徳の養父)ら、多くの医人を輩出することになった。 

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合水堂顕彰碑除幕式に出席して(大分合同新聞夕刊 2015.5.20)

 去る4月25日、日本医史学会開催の直前に、大阪市中之島の大阪市中央公会堂前に建立された合水堂(がっすいどう)顕彰碑の除幕式があり、出席した。
 合水堂は1804年、世界で初めて麻沸散(通仙散)という全身麻酔薬を使って乳癌の手術に成功した華岡青洲の弟、華岡鹿城(良平)によって1816年にこの地に設立された医塾である。
 鹿城は麻酔薬をよく使いこなし、外科手術の上でも妙技の評判高く、和歌山県紀の川市名手(なて)にある本家「春林軒」にも劣らない評価を得た。2代目南洋(準平)も同様に評判が良く、中津の医家大江一族からは雲沢、春亭、久、忠庵の4名と阿部原和泉が入門している。中津市立大江医家史料館には、華岡家からの3通の手紙と青洲の画像や医訓を込めた漢詩、乳癌の手術図を展示している。
 顕彰碑は華岡家春林会と日本医史学会、第29回日本医学会総会によって建立された。除幕式にあたり日本医史学会の小曽戸洋理事長、春林会の五十嵐慶一会長らがあいさつをした。
 青洲の「活物究理」(患者を活かし、科学的にものごとを極める)という思想、人々の命を助ける医術を極めるという哲学は、今日においても新鮮である。大江雲沢の「医は仁ならずの術、勤めて仁をなさんと欲す」の源流はここにあったのである。

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前野良沢の自然思想(大分合同新聞夕刊 2015.4.13)

 昨年は黒田官兵衛ブームのおかげで多くの観光客が中津城を訪れた。中には3階に展示してある「前野良沢と中津藩蘭学」を見て、「解体新書」の主役が良沢であったことや良沢が中津藩医であったことに感動し、便りをよこす人も増えてきた。
 ドイツ人クルムスの原著「ターヘル・アナトミア」の翻訳書が「解体新書」であり、日本の近代医学・科学の源流であることはよく知られているが、著者名に杉田玄白、中川淳庵などが記載されているために良沢は脇役にされていた。しかし良沢の長崎留学時代の恩師であった吉雄耕牛の序文や杉田玄白の「蘭学事始」を読むと、翻訳に当たって中心的役割を果たしたのは良沢であることがよく分かる。良沢が著者として名前を残すことを拒んだ理由については、辞書もない時代に「不完全な翻訳で出版することに耐えられない」とか「名利を求めず」と長崎留学の途中、大宰府天満宮に参拝し誓ったとか様々な説が存在する。
 良沢は「虚心石を友とす」という自然思想の持ち主。「人間が自然界の一部を支配したりできると非常に傲慢(ごうまん)になり、独力でしたように思いこみ、自分の力は自然の一部という謙譲の心がなくなるのではないか」という精神にあふれた人であった。東日本大震災後、4年を経てあらためて良沢の思想の深さと大きさを感じる。

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中津城と奥平昌高侯(大分合同新聞夕刊 2015.3.9)

 NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」は大変な評判を取り、中津城にも大勢の観光客が押し寄せてきた。中津城内には中津ロータリークラブが生んだ、日本人として2人目の国際ロータリー会長を務めた向笠広次氏の遺品や中津藩蘭学の展示などに加え、歴代奥平藩主の書画や遺品などが展示されており、多くの観光客の目に留まったようである。
 歴代藩主の中でも中津城5代目の奥平昌高侯の遺品は数も多く、豪放な書や名品のかぶとなど一見に値するものが多い。昌高侯は国際的にも著名な蘭学大名として知られ、シーボルトの江戸参府日記やオランダ商館長の日記にも数多く登場している。
 ヴォルフガング・ミヒェル九州大学名誉教授によって、中津市歴史民俗資料館分館の村上医家史料館叢書が中津藩蘭学の史料として研究が続けられている。その中の「人物と交流1」には昌高侯が、シーボルトや商館長と頻繁に交流していたことが記載されていて興味深い。
 昌高侯はフレデリック・ヘンドリックというオランダ名までもらっており、シーボルトが江戸に滞在中は毎晩のように訪問し、オランダ語で会話をしている様子が生き生きと記載されている。また“中津辞書”と呼ばれる和蘭辞書と蘭和辞書も自ら刊行し、蘭学を日本中に普及させることにも大きな役割を果たしている。

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田原淳と温泉(大分合同新聞夕刊 2015.2.3)

 前回の「灯」のマチュピチュ訪問記で、南米アンデスには元気な高齢者が多い長寿村があると書いた。心残りは、時間の関係でマチュピチュ村にある温泉に入り損ねた事である。
 温泉の湧出量日本一の大分県では、現在は九州大学病院別府病院と名前が変わっているが、1931年に九州大学温泉治療学研究所(温研)が発足し、温泉について国際水準の研究を積み重ねてきた。ここで長年研究を続け、温泉学の第一人者となった矢永尚士九大名誉教授の著書「温泉研究と私」には、温泉の歴史や効用、楽しみ方、リスク管理とさまざまな知識が分かりやすく書かれている。
 中津の田原春塘(しゅんとう)の養子となった田原淳(すなお)は東京大学医学部を卒業後、ドイツに留学。その時、心臓拍動メカニズムの解明に重要な役割を果たすことになった田原結節を中心とした刺激伝導系を発見し、今日の心電図やペースメーカーの基礎を築いてノーベル賞受賞者に匹敵する研究者となった。矢永先生は70年に温研に赴任した時に、所長室の写真を見て初代所長が田原淳である事を知ったそうである。
 一昨年、別府で開催された「日本温泉気候物理医学会」で「高気圧酸素治療」について講演した時、あらためて温泉の効用と高気圧酸素治療の効用が類似しており、健康維持と病気の治療に有効であることに驚いたものである。

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【2014年】
マチュピチュとクスコでケーナを吹く(大分合同新聞夕刊 2014.12.25)

 アルゼンチンのブエノスアイレスで開催された国際高気圧環境医学会の招請講演を依頼されたのを機に、ペルーに立ち寄った。その折、前野良沢の吹いていた「一節截(ひとよぎり)」に極めて類似したアンデスの笛「ケーナ」を携え、私たちのケーナの先生であるリチャード氏と、彼の友人でインカの末裔であるガイドを頼りに、世界遺産マチュピッチュにたどり着いた。
 標高2400メートルに造られたインカの空中都市はスペイン軍に見つかることなく無傷のまま1911年、ハイラム・ビンガムによって発見された。その精巧な石造り建造物と周囲の山並みや段々畑を息をのむ思いで見つめてしまい、ケーナを吹くことも忘れてしまうほどであった。
 マチュピチュ村で食べた食事は豊富な野菜と果実、ヨーグルト、チーズ、豆類、トウモロコシ、インカ米とモルモットの丸焼きであった。ここからエクアドルに入った所のビルカバンバが、コーカサスと並ぶ長寿の村であることは京都大学の家森幸男教授の調査で既に明らかになっているが、アンデス山中の運動が長寿に拍車を掛けたようである。
 遺跡見学の後はインカの首都クスコに戻り、現地のケーナ吹きと大いに音楽交流を楽しむことができた。自然宗教、言葉、顔貌、楽器などが蒙古民族と先祖を同じくすることを喜び合った。

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一隅を照らし一隅に輝く(大分合同新聞夕刊 2014.11.18)

 去る11月8日、鹿児島市で開催された第49回日本高気圧環境・潜水医学学会(有村敏明会長)にて、「一隅を照らし、一隅に輝く 高気圧医療をめざして」と題する代表理事講演を行った。
 1972年、筆者が九州労災病院で高気圧酸素治療を始めた頃は、一酸化炭素中毒やガス壊疽(えそ)、潜水病などにしか行われていなかったが、その後内外の学会などの豊富な検証を経て、多くの疾患が保険適応となった。当院でも骨髄炎、糖尿病や閉塞(へいそく)性動脈疾患に伴う難治性潰瘍、脊髄神経疾患、壊死(えし)性筋膜炎、スポーツや外傷に伴う腫れと痛みを特徴とするコンパートメント症候群、潜水病、脳梗塞など多くの疾患を治療してきた。
 しかし高気圧酸素治療は、診療報酬が欧米の3分の1から10分の1という低さに加え、ほとんどの入院が包括支払いになったため、無料で行っているという現状になり、多くの医療機関から治療装置の撤退が続き、治療に重大な支障を来すようになってきた。関西や四国で発生した潜水病が東京や九州にまで送られたりする事態となっており、政府にも陳情を続けている。
 このよう中で母がお世話になった京都の天台宗青蓮院門跡東伏見慈晃門主から表題のようなお言葉を賜り、我々も“水滴をうがつ”ようなさらなる努力を続ける必要性を強調して講演を終えた。

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一節截と簗次正(大分合同新聞夕刊 2014.10.16)

 NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の影響で多くの観光客が中津城に押し掛けてくるようになり、中津市では嬉しい悲鳴が上がっている。ドラマは回を追うごとに人気が高まっているが、人気の訳の一つに時代考証に真摯に向き合っていることもありそうだ。その一例は、時折出てくる縦笛が一節截を使用していること。
 中国から百済を経て伝わった雅楽尺八が次第に進化して鎌倉時代に一節だけの一節截となり、室町、安土桃山時代には尺八といえば一節截が吹かれた時代があった。特に集大成者として大森宗勲が知られている。蘭学の鼻祖として「解体新書」の出版に大きな功績を残した中津藩の前野良沢は、伯父の医師宮田全沢に廃れかかった芸能を稽古するように勧められ、宗勲流の名手となったとされている。
 全沢の四男は1755年、簗(やな)家の養子に迎えられ簗次民と名乗った。次民の子利秀の養子になった正田孫左衛門の三男は次正と名乗り、弓馬槍剣の奥義を窮め中津藩の指南役となった。次正は良沢と親交があり、築地の中津藩中屋敷で高山彦九郎を交えて一節截の練習に励んでいたことが記録にある。
 簗家にはこの一節截が残されており、私たちも「一節截の会」を結成してその復元に成功し、毎月練習に励んでいる。優しい音色をぜひ聞いていただきたい。

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ロコモ チャレンジ(大分合同新聞夕刊 2014.9.9)

 日本整形外科学会は今、人類が経験したことのない超高齢社会・日本の未来を見据え、組織を挙げて「ロコモ チャレンジ」に取り組んでいる。
 「ロコモ」は正式名が「ロコモティブシンドローム」。筋肉や骨、関節、軟骨、椎間板といった運動器の障害によって、歩行や日常生活に何らかの障害を来している状態の総称である。ロコモチャレンジはロコモに負けない日本をつくるとして学会が掲げているスローガンであるが、メタボに比較するとまだまだ世間の認知度は低いようである。
 日本人の平均寿命は男性約80歳、女性約86歳と世界のトップレベルといわれている。一方、健康寿命は男性約70歳、女性約74歳で、病気になり自立度の低下や寝たきりになる期間が男性は10年、女性は12年もある。いわゆる要支援、要介護になる主な原因は、運動器の障害23%、脳血管障害22%、認知症15%である。
 学会では七つのロコチェックを提唱している。片足立ちで靴下が履けない、家の中でつまずいたり滑ったりする、階段を上がるのに手すりが必要、やや重い物を持つ家の仕事が困難、重さ2キロ程度の買い物をして持ち帰るのが困難、15分くらい続けて歩くことができない、横断歩道を青信号の時間内に渡り切れない、などの症状があれば、運動器疾患の予兆の可能性もあるので要注意である。

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セントルイスの学会にて(大分合同新聞夕刊 2014.8.8)

 去る6月17日、米ミズーリ州セントルイスで開催された国際潜水・高気圧環境医学会に出席し、当院の川嶌眞之院長、小杉健一医師と「骨髄炎に対する局所持続洗浄療法におけるオゾン・ナノバブルの応用」とスポーツや外傷などが原因でおこる「コンパートメント症候群に対する高気圧酸素治療の応用」という演題で発表してきた。
 学会初日には早朝から夕方まで、「難治性創傷に対する高気圧酸素治療」のテーマで、高気圧酸素治療の基礎と臨床、職員教育、患者教育、保険問題など徹底した研修がおこなわれた。米国人の教育熱心さをあらためて感じた一日であった。
 3人に1人が肥満者という米国では、メタボリック症候群、特に糖尿病の増加が大きな問題になっており、脳血管・循環器疾患のみならず、足部の難治性潰瘍も増加している。かつては治療に難渋して切断された症例も多くあったそうだが、高気圧酸素治療が極めて有効であるということから保険適応になって、高気圧酸素治療装置は急激に増加したという。
 19世紀初頭、トーマス・ジェファソン大統領が、当時フランス領だったセントルイスを購入したことから西部開拓の玄関口になったこの町には、ゲートウェー・アーチがシンボルとして存在していた。米国のたぎるようなパイオニア精神がみなぎる町であった。

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ほたるの里 友枝を訪ねて(大分合同新聞夕刊 2014.7.4)

  去る6月5日、母ミツヱの生まれた福岡県築上郡友枝の“ほたるの里”を、職員たちと訪ねた。昔は中津市内でもあちこちに見られた蛍も、よほど郊外に行かなければ見られなくなってきた今日この頃である。
 この地域の人々はまず清流を保存し、蛍のすめる環境を整えたのみならず、カジカガエルを人工ふ化して放流している。川沿いを歩くとまずカジカガエルの声を聞き、やがて暗闇の森の中から次々と光の帯が現れてくる。その光の帯は次第に点滅の間隔を整え、打ち合わせているかのように同調して移動してゆくのである。
 蛍は交尾をし、産卵してから10日でふ化し、幼虫となって9カ月から2年かけてカワニナという貝を食べ、上陸して40日して、前蛹(ぜんよう:さなぎに成る前)になり、さらに10日してさなぎになる。そして羽化後、わずか3~5日間だけ空中を飛び回り発光し、交尾をするのである。この数日間の恋の瞬間が幻想的な光の乱舞であることを考えると、大自然の神秘に大いに感動してしまう。
 江戸時代は廻船問屋だったという別所家の長女であった母ミツヱは、一族の期待を担って、日本で最初の公認の東洋女子歯科医学専門学校に1927年、2回生として入学した。免許取得後、最初に開業した地が友枝であることを考えると、この蛍の光は誠に感慨深いものであった。

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竣工式と国際フォーラム(大分合同新聞夕刊 2014.5.29)

 去る4月12日、当院の新病院竣工を記念して、高気圧医学国際フォーラムが開かれた。特別講演者は国際潜水・高気圧環境医学会のピーター・ベネット理事長(米デューク大学名誉教授)、アレックス・ソバキン・米ウィスコンシン大学公衆衛生学博士、柳下和慶東京医科歯科大学准教授。3人とも高気圧医学・潜水医学の世界で著明な演者であり、聴き応えのある講演ばかりであった。
 中でもベネット理事長は1981年に686メートルという深度潜水の実験に成功し、人間の耐圧性の限界に挑戦した国際的なパイオニアである。80年にはレクリエーションダイバーの安全を守るためのDAN(海洋レジャー安全協会)という国際組織を設立し、急性潜水病にかかったダイバーたちを救出してきたことでも知られている。
 米国では増加中の糖尿病で足部壊死(えし)した患者を、足部の切断から守るために高気圧酸素治療装置が毎月、造設され、多くの病院で創傷治療センターが創設されているという。翻って日本の現状を考えると、多くの国公立大学病院から大型高気圧酸素治療装置が撤去され、民間の同装置も減少が続いている。
 その理由は高気圧酸素治療の診療報酬が米国などに比べ、10分の1と極端に低いために装置の維持管理ができないという。深刻な現状である。

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京都にて一節截を吹く(大分合同新聞夕刊 2014.4.26)

  「解体新書」翻訳の中心となった前野良沢は蘭学の研究の傍らに「一節截(ひとよぎり、一節切とも書く)」という尺八の一種を吹いていたことはよく知られている。良沢の大森宗勲流の一節截は中津藩士簗次正(やなつぐまさ)、神谷潤亭に伝わり、現在、中津市内で6本発見されている。
 筆者が主宰するマンダラゲの会では「中津一節截の会」という部会を作り、本徳照光氏が復元した一節截を、尺八師範伊藤正敏氏による指導を受けながら当院にて3年間、練習を重ねてきた。去る3月26日、一節截研究者として高名な相良保之氏主催による「一節切コンサート」が一節截とゆかりの深い京都の正法寺にて開催されたのを機に伊藤氏と出席し、演奏してきた。
 さすがに全国から集まっただけあって名演奏家が多く気恥ずかしい思いであったが「伊勢おどり」など江戸時代の楽譜を翻訳して吹いたところ、その吹き方でよろしいという相良氏のお墨付きを得た。鎌倉、南北朝に始まり、室町、安土桃山時代に全盛を極めた一節截が現代によみがえり、京都の高台にある古刹(こさつ)で演奏されたことに一同感動したようである。
 後醍醐天皇や伏見宮も吹かれていたということで、亡き母が東洋女子歯科医学専門学校時代にお世話になっていた青蓮院門跡の東伏見慈洽名誉御門主の御仏前に1本献上してきた。

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真野喜洋名誉教授の逝去(大分合同新聞夕刊 2014.3.22)

 去る2月15日、私の直前まで日本高気圧環境・潜水医学学会代表理事を務めていた真野喜洋東京医科歯科大学名誉教授の訃報に接し、まさに胸のつぶれる思いがした。
 真野先生は東京医科歯科大学の同級生で、学生時代にはボート部のリーダーとして、また体育会の会長としていつもスポーツマンらしい爽やかな議論のできる学友であった。学生時代から梨本一郎先生の下で潜水医学の研究を続け、さらに海底居住の実験などにも参加し、30メートル、50メートル、100メートルと深海潜水の新しい展開などについても研究協力をしていた。
 1972年、九州労災病院に赴任した私は天児民和院長の指導の下、整形外科の仕事をしながら高気圧医療と潜水士の骨壊死の研究をするようになり、真野先生と同じ医療の領域に踏み込むことになったという不思議な縁を感じた。73年のバンクーバーの国際高気圧環境医学会で遭遇して意気投合、同じ領域の共同研究をやることになった。その後、41年間、毎年のように行動を共にして国際学会で共同発表するようになり、私達のライフワークとなった。
 真野先生は日本を代表する高気圧医学の第一人者となり、たくさんの著書や論文は世界中に知れ渡っている。その偉大な友人を失ったことは痛恨の極みである。真野先生のご冥福を心よりお祈りする。

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宇都宮氏の居城を訪ねて(大分合同新聞夕刊 2014.2.15)

 昨年末、中津地方文化財協議会の太田栄副会長のご案内で、黒田官兵衛が1588年、中津城内に呼び寄せて謀殺し、合元寺(赤壁)で家臣も討伐した宇都宮鎮房の居城・城井谷(福岡県築上町)を訪れた。
 宇都宮氏はもともと下野国(現在の栃木県)を本拠としていたが、源頼朝の命で九州で勲功を挙げた信房が1185年ごろに木井馬場(福岡県みやこ町)に入部したことから始まり、4代目の通房の時には豊前国最大の武士団に成長。6代目の冬綱のころには北朝方として活動し、豊前の守護に任じられた。大内領国時代にもその地位を保ち、親族の佐田氏は宇佐郡代、野仲氏は下毛郡代を世襲し豊前一帯を支配していた。
 黒田官兵衛は1586年、秀吉の九州征伐の軍監として馬ケ岳(福岡県行橋市)の城主長野三郎左衛門、時枝(宇佐市)の城主時枝平太夫、宇佐(同)の城主宮成吉右衛門を降伏させたが、1587年に豊前一帯に国人一揆が起こり、宇都宮鎮房は黒田長政の大軍を岩丸山上(築上町)で撃退した。一揆の原因は宇佐市の禅源寺の年代記録に記されているが、検地が実施されたため先祖伝来の土地を奪われるという懸念を生じたからだともいわれている。
 訪れた城井谷は狭く、深く、幾つもの支城が広がっており、堅固な城であったことを実感した。中津城跡の長政が鎮房を埋葬した場所には後に城井神社が建立された。

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日本マイクロ・ナノバブル学会にて(大分合同新聞夕刊 2014.1.13)

 微小な気泡「マイクロバブル」「ナノバブル」の研究は、大分県では国東市にナノプラネット研究所を構える大成博文氏が時代の先端をを走り、カキやホタテの養殖などで既に実用化。血流改善効果もあり、リハビリテーション領域でも、当院と共同研究が始まっている。
 日本マイクロ・ナノバブル学会は、代表理事が東京医科歯科大学の真野喜洋名誉教授から、産業総合技術研究所の高橋正好研究主幹の交代。昨年12月には東京で学術総会を開催し、医療分野だけでなく農業、工学分野でも多くの研究成果が報告された。
 オゾンナノバブルは殺菌力、洗浄力、組織修復力、保存力が認められることが真野名誉教授のグループの研究からも明らかになってきており、当院も整形外科領域への応用研究を続けている。今回は「骨・関節感染症に対するオゾンナノバブル水を用いた持続洗浄療法」「難治性潰瘍に対するオゾンナノバブルの応用」「重症感染性褥瘡に対するオゾンナノバブルの応用」について、有用なる効果を発表した。
 九州大学の大平猛教授は内視鏡手術で、マイクロバブルとナノバブルを殺菌洗浄剤として併用しながら救急医療や消化器がんの治療に応用していることを報告した。新しい時代に向けて医療も確実に前進している事が感じられた一日であった。

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【2013年】
一隅に輝く病院をめざして(大分合同新聞夕刊 2013.12.4)

 去る11月17日、別府市のビーコンプラザで筆者が会長を務める第31回大分県病院学会が「一隅に輝く病院をめざして」のテーマで、2600人が参加して開催された。特別講演を予定していた塩屋俊監督の急逝のため、筆者が代わりに監督の思いと災害医療について講演した。遺作となった舞台劇「HIKOBAE(ひこばえ)」で監督が言いたかったことは、人間の尊厳を守り、患者を守り、絆を深め、多くの人々と連携することの重要性であったと思われた。
 筆者と中津ロータリークラブが支援する宮城県塩釜市のリーダーの一人である矢部亨氏が、当院の現地物産消費支援バーベキューで語った「人の絆こそ最強の堤防です。必ず復興して見せます」の言葉の重みこそ、劇のテーマ「ひこばえ」であろう。榎本由之宮司によると豊後高田市の山神社では、火災で焼けたタブノキが”ひこばえ”から10年で見事に再生したという。熊谷航氏の「神社は警告する」の中では、多くの神社の鎮守の森・タブノキの所で津波が止まっているという。
 厳しい医療介護情勢の中、県下の100を超える病院が一隅を照らし、一隅に輝く病院をめざして”水滴が岩をもうがつ”努力を続けている現状の発表が続いた。たくましいタブノキとその”ひこばえ”のような病院であり続けたいものである。塩屋監督のご冥福を祈ります。

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マンダラゲの会開催さる(大分合同新聞夕刊 2013.10.30)

 10月19日、恒例の「マンダラゲの会」が中津市の大江医科資料館の薬草園の手入れから始まった。華岡青洲が世界で最初に考案した全身麻酔薬「通仙散」の主要成分であるマンダラゲの花も今年はよく繁茂しており、夏には清らかな白色の花が訪れた人々の目を楽しませてくれた。別の場所で育ててきたトリカブトも気品ある紫色の花が満開寸前であった
 薬草の手入れが終わると場所を黒田官兵衛の弟から20代目に当たる黒田義照住職の西蓮寺の本堂に移し、大分大学名誉教授、立命館アジア太平洋大学孔子学院院長・神戸輝夫先生による「三浦安貞(梅園)と中津」と題する講演が行われた。梅園が中津藩文学者藤田敬所に学ぶために1739年以来、たびたび中津を訪問して多くの中津人と交遊したことは前回の講演でもお話しされたが、今回は賀来元龍(子登)という豊後町で酒屋を営みながら敬所に学び、著書も30数冊に及んだという学者との交際についてお話された。梅園とはよほど馬が合ったらしく酒を酌み交わし、文通しながら多くの漢詩をお互いに交換したという。梅園がいかに元龍のことを思い、中津の人々との交遊を楽しみにしていたかがよく分かった。
 この後、金色温泉にて大江薬草風呂で汗を流し、前野良沢が愛好した「一節截(ひとよぎり)」という笛とケーナが演奏され、秋の夜長を楽しんだ。

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塩屋俊監督とHIKOBAE(大分合同新聞夕刊 2013.10.2)

 去る8月10日、臼杵市出身の映画監督・塩屋俊(本名・智章)をしのぶ会が、監督の新しい活動予定地であった国東市国東町のアストくにさきでしめやかに営まれた。献花台には遺作となった舞台劇「HIKOBAE(ひこばえ)」にちなんだ樹木の切り株やその根元から出る若葉”ひこばえ”が設置されており、監督の思いと面影が、ひしひしと胸に迫ってくる思いがした。
 監督は慶応義塾大学を卒業後、56本のテレビドラマ、17本の映画に俳優として出演し、映画監督としても6本の映画を製作した。1994年からアクターズクリニックを主宰。演出を通して演劇人材の育成を図り、受講生の延べ人数は9千人を超えていたという。臼杵の有機茶の栽培をテーマにした「種まく旅人」は農業を通じて人間愛をおおらかに描いた作品で、中津でも”朱華”主催で上映され大きな反響を呼んだ。
 福島県相馬中央病院の実話を基に東日本大震災の地震と放射能の恐怖の中で必死に住民や入院患者さんを守った病院職員や消防団のことを描いたHIKOBAEは、ニューヨークや福岡などでも上演され多くの観客が感涙にむせびながら歓呼の声を上げていた。11月17日、筆者が会長として別府市で開催する予定の大分県病院学会での特別講演者に、監督が予定されていただけに痛恨の極みである。

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田原淳と中津の解剖史(大分合同新聞夕刊 2013.8.29)

 去る7月27日、大分県立図書館においてNPO法人「ペースメーカーの父・田原淳(たわらすなお)の会」(代表・島田達生大分大学名誉教授)主催の田原淳シンポジウムが開催され、「中津蘭学のパイオニア精神と田原淳」と題してお話をさせていただいた。
 田原淳は1873年大分県国東市安岐町の中嶋定雄の長男として生まれ、中津の開業医田原春塘(しゅんとう)の養子となった。1901年には東京帝国大学を卒業し、2年後にドイツのマーブルグ大学に私費留学した。淳は病理学研究所のアショフ教授の指導と協力の下で、人間と羊の心臓を解剖し、心臓の鼓動の源である刺激伝導系を発見した。この発見は「ノーベル賞を超えた世紀の大業績」と呼ばれ、このおかげで毎年100万人の不整脈患者の命が救われている。
 淳の私費留学の費用を、田畑を売って捻出して支援したのが養父の春塘であることが中津市上宮永の植田家の資料からも判明し、大江医家史料館に展示されている。春塘自身も1889年、火薬業・富永章一郎の献体解剖の筆頭助手を務め、前野良沢、村上玄水といった中津の解剖史に名前を連ねられるほどの並々ならぬ情熱を持っていた医師であったことを示す資料が村上医家史料館に展示されている。
 このように偉大な発見の影には多くの人々の精神的な支えと財政的な支援が必要である。

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国際潜水・高気圧環境医学会に参加(大分合同新聞夕刊 2013.7.26)

 6月13~15日、米国フロリダのオーランドで開かれた第46回国際潜水・高気圧環境医学会に出席した。私は1975年以来ほぼ毎年出席しており、今回は81年から当院で治療してきた515例の潜水病(減圧症)の治療成績について発表した。
 発症から6時間以内の治療事例は94.1%がほぼ良好な治療成績を収めている。しかし中には治療開始が遅れて脊髄麻まひなどを残した事例もある。治療には大型の高気圧酸素治療装置が必要なのだが、日本では潜水病の治療費が欧米のわずか1割の低額医療費のため装置の維持ができず、医療機関が潜水病の治療から次々と撤退している。また潜水病専門の医師も年々減少していて、国内では治療可能施設は極めて少ない。
 米国ではダイバーズアラートネットワークという潜水病治療の全国ネットワークがあり極めて多くの治療施設が運営され、どこで潜水病になっても通知すれば最寄りの施設で即治療可能の組織が出来ている。しかし日本では施設と医師の減少のため治療遅れなどから毎年、潜水事故で約50人のダイバーが死亡している。
 そのためこの危険な職業に対する関心が薄れ、東日本地区の港湾や橋脚などの建設現場では、プロダイバーの不足が深刻な問題となっている。ダイバーが潜水病の恐怖から解放され安心して潜水できる環境になってほしいものである。

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トルコの医師たちとの合同セミナー(大分合同新聞夕刊 2013.6.24)

 5月18日、トルコの医師たちとの合同セミナーを京都で開催した。1979年、私が九州労災病院で勤務している時に留学で来日したトルコのトンチ・カリオン医師がこのたび、合同セミナーを希望し、46人もの医師を帯同して来日した。
 日本からは和歌山県立医科大学の田島文博教授、当院から私と川嶌眞之院長代理、徳田一貫理学療法士が講演をした。トルコからはラシャド教授などが講演し、有意義な交流をすることが出来た。カリオン先生は何度かこの欄でも紹介したが、大変な親日家で、在日中の一年間は私たち夫婦がお世話をした関係でそれ以来の長いお付き合いだ。
 トルコ人が特に親日的である理由は、1890年に和歌山県大島村の沖合でトルコの軍艦エルトゥールル号が遭難した時に多くの乗組員を村人が救出し、手厚い看護をした美談がトルコの教科書にも掲載され、今も語り継がれているからだ。以来、トルコは最も親日的な国として知られている。
 28年前、イラン・イラク戦争でイランに取り残された200人の日本人を救出したのはトルコ航空だし、ボスポラス海峡の橋は日本人が建設した。両国は互いに助け合ってきたとかねてカリオン先生から聞かされていた。友好国を増やすことは今後の日本にとって、とても大切なことだとあらためて感じた会合だった。

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東北地方を訪ねて(大分合同新聞夕刊 2013.5.18)

 5月の連休を利用して秋田県の角館と東日本大震災の被災地を訪ねた。期待の角館の桜は少し早かったが、その見事な街並み保存には驚くばかりであった。特に角館歴史村・青柳家には「解体新書」の解剖付図を描いた小田野直武(1749~1780)の史料と人生の足跡と胸像が展示されており、大いに興味をそそられた。
 1773年、銅山の開発のために幕府から派遣されていた平賀源内は直武に西洋画法を指導し、さらに江戸に招いて、中津藩の前野良沢らが苦心して翻訳した「解体新書」の解剖付図を描かせた。直武は「バルトリン解剖書」など幾つかの解剖書を参考にしており、医学知識がない直武が、良沢らの欲している解剖図をどう描くかという感性的理解は、見事というほかはない。
 街並み探訪の後は芸術村の温泉に一泊して汗を流し、わらび劇場でミュージカル「幕末ガール~ドクトルおイネ物語」を、四国に続き2度目の感動に浸りながら観劇した。さまざまな困難を乗り越えてゆく“おイネ”の生き方は、被災地の人々の魂を揺すぶり希望を与えているようである。
 帰りは岩手県宮古市、山田町、大槌町、釜石市の被災地を訪ね、復興がなかなか進まぬ状況の中で懸命に生きている復興商店街路の人々と交流した。宮城県塩釜支援のバーベキューを行ってきたが、今後も続ける必要性を感じた。

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ドクトルおイネ物語(大分合同新聞夕刊 2013.4.16)

 去る3月9日、日本高気圧環境・潜水医学会中国四国地方会で「最近の高気圧酸素治療と高気圧医学」について講演する機会があり、久しぶりに愛媛県松山市を訪れた。松山は正岡子規の“子規堂”など文化施設が多く、訪問する度に感銘を受けることが多い。今回は隣接する東温市のショッピングセンターや温泉施設の一角にある坊ちゃん劇場で上演されていたミュージカル「幕末ガール~ドクトルおイネ物語」を観劇することができた。
 1829年、オランダ商館医シーボルトは娘イネをまな弟子の二宮敬作に託して長崎を去った。敬作はイネを故郷の宇和島藩卯之町に呼び寄せ、開業の傍らイネに医師としての修業をさせた。イネは岡山の石井宗謙の下で産科医としての修業をし、宗謙との間に“たか”とい娘を産んだ。イネはその後も敬作の下で修業し、長崎で開業したが、青い目の女医として批判にさらされることも多く、宗謙の長男信義の世話で1870年、東京で開業した。宗謙と適塾で親しかった福沢諭吉はイネの境遇に同情して1873年、宮内庁御用掛に推薦し、イネは明治天皇の若宮の出産に立ち会った。
 女医としてのイネのたくましい生き方がこのミュージカルによく表現されており、日本に初めて設立された東洋女子歯科医学専門学校2回生の女性歯科医として同様の苦労した母のことが思い起こされた。

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中根家の医業日記より(大分合同新聞夕刊 2013.3.15)

 大分市在住の中根忠之氏のご先祖は岡崎藩本田家の家老・番頭を務め、その膨大な史料が愛知県岡崎市より中根家文書上下2巻として出版されていることで知られている。
 中根家12代目の中根時雄氏は済生学舎を卒業し、1888年に医術開業試験に合格して大分県大字戸原字口ノ林(現中津市耶馬渓町)に開院した。時雄氏は、熱傷の治療で有名になり、患者は、下毛郡はもとより、玖珠郡、日田市、築上郡からも押し寄せるようになった。
 時雄氏はきちょうめんな性格から、1890年10月28日から1936年10月31日までの詳細な日記を「家事雑誌」として書き残している。この日記を読むと天然痘、はしか、インフルエンザ、赤痢、梅毒、コレラなど感染症の記事が繰り返し出てくる。特に1918年のスペイン風邪の大流行では毎晩午前3時、時には夜を徹して診療したと記されている。
 昔も今も感染症は最前線の医師にとって最大のテーマの一つであり、神経を擦り減らして闘っている。しかし、感染症で亡くなると、あたかも医師の責任のように報道される昨今の現状はいかがなものか。ノロウィルスやインフルエンザなどの完全予防は不可能で、特に衰弱した高齢者が罹患した時には、極めて厳しい事態になることを理解して欲しいものである。

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二豊マイクロ・ナノバブル学会を主催して(大分合同新聞夕刊 2013.2.6)

 去る1月19日、当院で二豊マイクロ・ナノバブル学会が開かれ、ナノテクノロジーの医療分野における研究発表が活発に行われた。
 日本マイクロ・ナノバブル学会会長である東京医科歯科大学の眞野喜洋名誉教授は酸素やオゾンガスを超高熱、超高圧で衝撃を与えるとナノバブルが発生し、さまざまな薬理効果を持つようになることを発表した。その作用は組織の温存、修復、再生作用に加え、殺菌作用も有する液体として水産、農業、医療分野にも応用できるという。
 発生してもすぐ消滅する従来のマイクロバブル水と比較するとナノバブル水は9ヵ月以上も安定して効力を持続する。産業技術研究所の高橋正好主任研究員は安定化の理由はナノバブルの周囲にイオンの殻ができるためだという。ナノバブルは多くの細菌やウィルスを強力に破壊するが正常な組織にほとんど毒性がないことを、東京医科歯科大学の荒川真一教授が細菌学的研究として述べた。
 宇宙航空研究開発機構の嶋田和人医長は宇宙ステーション内の飲料水や冷却水にすることを検討しているという。大分大学の河野憲司教授は顎骨壊死(えし)・骨髄炎への応用を、当院の川嶌眞之副院長は骨髄炎や難治性潰瘍への応用の可能性を述べた。正月明けに夢に満ちた学会を開催できたことをうれしく思った。

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【2012年】
「日本の静かなる山」米国で出版さる(大分合同新聞夕刊 2012.12.27)

 1945年5月7日、中津の八面山上空で、小月航空基地から飛び立った日本の戦闘機に体当たりされた米軍爆撃機B29が空中分解し、乗員11人中3人がパラシュートで脱出した。生存者は村人たちに人道的に扱われ、中津警察署長は引き渡しを要求してきた日本軍の将校たちを説得して、生存した乗員は憲兵隊に渡された。
 この生存者たちが福岡空襲のさなかに殺されてしまった悲劇について調べていた米国人から調査を依頼され、昨年の12月、八面山平和公園の保存管理をされている楠木正一氏のご協力を得て、周辺の写真や史料を英訳して送ったことがある。その米国人、ウィスコンシン州のマイク・バーグ氏から、『B29の乗員たちと日本の静かなる山』という本が送られてきた。
 バーク氏はこの本を書いた目的を「古い傷口を開くためでもなく日米両国を責めるためでもない。むしろ、戦争のさなかでも人道的であることを忘れなかった人々がいたことを伝えるため、また何百マイルも離れたはるか遠くから海を越え、恐怖に打ち勝ちながら飛び立っていった若者たちのことを伝えるために書いた」と述べ、そして氏は個々の乗員たちのことも紹介し、その最期についても記述。さらに楠木正義氏が土地を提供し、日米双方の働きで平和公園と資料館が造られたことも記載している。

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スウェーデンの医療(大分合同新聞夕刊 2012.11.24)

 筆者が2008年に中津で主催した日米宇宙・潜水・高気圧環境合同学会が今回は東京で開催されることになり、スウェーデンの高気圧環境医学会会長で、ノーベル賞委員会があることで高名なカロリンスカ大学病院のフォルケ・リンド博士を、中津ロータリークラブと二豊整形外科フォーラムに招待して、スウェーデンの医療福祉政策や高気圧酸素医療の現状を講演していただいた。
 この病院の高気圧治療室は三つの部屋に分かれ、集中治療室が内部に作られており、ガス壊疽(えそ)や壊死(えし)性筋膜炎、コンパートメント症候群、一酸化炭素中毒や骨髄炎、糖尿病性足潰瘍などの治療が行われているとのことであった。巨大な高気圧治療装置に驚くばかりであるが、日本の3倍以上の医療費にもかかわらず、患者負担もないとのことであった。
 所得税が60%、消費税が25%と高いのもうなずけるが、安心して医療や介護が受けられるために国民の消費意欲も高く、医療産業が発達しているために経済が順調に伸びており、国の債務もGDPの30%しかないということであった。国民が政府を信頼しているため、1947年から国民総背番号制度がとられているとのことであった。
 今後の日本の針路を考えるにあたって、一つの参考になる国のようである。

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増加する腰痛と下肢のしびれ(大分合同新聞夕刊 2012.10.23)

 近年、腰痛と下肢のしびれを訴える患者さんが増加している。若い人の場合は腰椎椎間板ヘルニアが原因となっているものが多く、近年の研究では90%の人が保存的に治癒する。
 問題は高齢者に多く見られる脊柱管狭窄(きょうさく)症である。間欠跛行(はこう)という症状が特徴で、歩いていると下肢がしびれてきて次第に前かがみになって、しばらく休んでからようやく歩けるようになる。椎間板の変性が進行している高齢者に手術しても、間欠跛行は取れてもしびれが取れないと訴える。
 東京医科歯科大学の整形外科医である加藤剛医師らのグループは、高気圧酸素治療群とこの治療を行わない群に分けて治療したところ、高気圧酸素治療群に有意に改善を見たという。特にしびれを訴える群では手術に至ることが少なく、経過も短縮されたという。
 これ以外にも運動療法や神経根ブロックでかなりの人が保存的に治っているという報告が続いている。特に運動療法はストレッチングや筋力強化を通じて姿勢を正しくし、腰の負担を軽くして腰痛やしびれを緩和することが認められており、さまざまな学会で報告が続いている。
 保存的な治療を究め、手術治療の適応を科学的に、適切に絞ってゆくことが医療費の節約にもなるし、患者さんのためもなると思われる。

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耶馬渓集中豪雨と岡田医院(大分合同新聞夕刊 2012.9.20)

 今年の梅雨は7月に入って、3、12、13、14日と記録的な豪雨となり、後に九州北部豪雨と名付けられ、各地に大水害を引き起こした。中津市の本耶馬渓町、耶馬溪町も度重なる豪雨によって河川が氾濫し、大きな被害を受けたことがマスコミでも報道された。そのような中で日本各地からお見舞のメールや手紙が寄せられ、あらためて全国の方々のご支援に感謝する。
 そんなある日、京都の岡田医院の水野融院長から30万円もの水害見舞金が送られてきた。融院長の父上である故岡田安弘先生は、この欄でもかって紹介したように、奥平昌高中津藩主が創立した藩校進脩館の初代教授だった倉成龍渚の子孫である。
 龍渚は耶馬渓を天下に知らしめた頼山陽の『耶馬溪図巻記』に先立つこと25年前に、羅漢寺や周辺の山水を紹介した「耆闍崛山記(ぎしゃくつせんき)』という長大な巻物を書き残した。この巻物は岡田先生のご厚意で昨年、耶馬渓風物館に展示され、現在は複製が展示されている。山陽がこの巻物を読んで耶馬渓を訪れ、その景観に驚き天下に紹介したといわれている。
 先祖の記録した名勝耶馬渓の復興を祈って、この度の大水害に岡田医院から送られてきた見舞金に、当院の患者さんや職員からの義援金を一緒にして、新貝正勝市長に届けることができてほっとしたところである。

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米国フェニックスの学会にて(大分合同新聞夕刊 2012.8.18)

 去る6月21~23日の期間、米国アリゾナ州フェニックス市において開催された国際潜水・高気圧環境医学会に出席した。
 米国南西部アリゾナ州のソノラン砂漠の真ん中に、全米で5番目に多い156万人もの人口を抱える巨大都市があることにまず驚かされた。野球、フットボール、バスケットボールと季節によってさまざまなプロスポーツが楽しめるということで、40度を超える厚い砂漠気候にもかかわらず多くの観光客が訪れていた。
 このような砂漠に2千年も前から運河を造り、農業を営んできた先住民族(ネーティブアメリカン)のアートや歴史を紹介する全米屈指のハード美術館には、部族ごとの生活、日常品、楽器、手工芸品が展示されている。この地域の発展は、かれらの長年にわたる努力の上に築かれたものであることがよく分かるようになっている。西部劇で悪者のように取り扱われていた先住民たちが、いかに優れた文化を持ち、家族や部族の絆を大切にしてきた民族であるかを事細かに解説している。特に木製のフルートは日本の尺八のような音がでるため、楽譜とCDも併せて購入してきた。
 長年の「潜水病と骨壊死(えし)」の研究が報われ、この学会で“国際潜水医学学術賞”と“特別名誉会員賞”を授与されたことが、なによりも嬉しいことであった。

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被災地塩釜を訪ねて(大分合同新聞夕刊 2012.6.25)

 中津ロータリークラブの姉妹クラブである山形南ロータリークラブの創立40周年記念式典参加を機会に、5月二20日、中津ロータリークラブのメンバー12人と宮城県塩釜市の被災地を訪問した。
 中津ロータリークラブの川原田和広会長から、ニコニコ募金一年分が塩釜ロータリークラブの斎藤眞三会長に手渡された。沈没したフェリーの代替船として活躍している中古フェリーの運転資金の一部に活用されるとのことであった。
 災害復興のリーダーの一人、塩釜青年会議所OBの矢部亨氏に現地の被災状況を詳細に案内していただいた。この一年間でガレキは撤去され、海岸沿いにうず高く山積みされていたが、低地の商店街を含めて海岸沿いのほとんどの建物は津波によって破壊消失し、まだまだ復興には到底及んでいない状態であった。
 ここから仙台空港までの平野は、どこまでいっても大空襲の焼け跡のような荒涼たる景色が続いており、まさに息を飲む思いでいっぱいになった。矢部氏は「海を恨まず、海に逆らわず、なんとか高台に早く逃げられるような復興にしたい」と述べていた。
 矢部氏と話していると前野良沢の「自然を恐れ、敬い、自然に従う」という思想と福沢諭吉の「独立自尊」の精神が今こそ生かされるような気がしてならなかった。

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上海・北京にて講演(大分合同新聞夕刊 2012.6.1)

 先のゴールデンウィークに息子の眞之副理事長とともに中国で講演する機会を得た。上海交通大学では筆者が「潜水病と骨壊死、日本における最新の高気圧酸素治療の現状」、眞之は東京医科歯科大学・眞野喜洋名誉教授との共同研究「酸素・オゾンナノバブルの基礎的、臨床的研究」を講演した。
 中国ではチベットの5,000メートルもの高地ダムでの潜水や三〇〇メートルを超える深海潜水の実験が行われており、骨壊死の研究はこれからであるという。相互の研究成果の有益な意見交換ができて今後のさらなる共同研究の模索をすることが話し合われた。
 北京ではガオ教授が主催するアジア・太平洋潜水・高気圧環境医学会の設立会議があった。中国ではすでに5,000基を超す高気圧酸素治療装置が全国に設置されており、中国各地の代表やオーストラリア、マレーシア、インド、台湾の代表も参加していた。早朝から夕方まで、設立条文や学会規則を一字一句皆の意見を聴きながらまとめてゆく気長さと民主的運営には驚くばかりであった。
 長時間に及ぶ議論の末ようやく学会の設立が宣言され、最初の学会を青島(ちんたお)で開催することが決定し、日本からも6名の役員が入ることになった。最後に眞之が「ナノバブル」の英語講演を行ったときには、参加者全員くたくたになっていたようである。

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マンダラゲの会と村上玄水(大分合同新聞夕刊 2012.4.28)

 筆者が会長を務める、大江医家史料館の裏庭にある薬草園の運営から始まった、マンダラゲの会も今年で8年目になる。4月15日、その薬草園に約20種類の薬草を植栽し、隣接する東林寺にある村上玄水の墓にお参りした後、1819(文政2)年、玄水が59名の医師たちの見守る中で行った人体解剖の記録を村上医家史料館で見学した。
 その後、桜の花びらが舞い散るうららかな城下町を散策して着いた村上家ゆかりの童心会館で、九州大学名誉教授ヴォルフガング・ミヒェル先生の「村上玄水とその時代」という講演会が開催された。2002(平成14)年以来、中津の歴史、蘭学資料を調査解読し、多くの本を出版してこられた先生ならばこその迫力ある講演であった。
 玄水は藩校進脩館にて倉成龍渚、野本雪厳の漢学指導を受けた。玄水のすごさは生涯にわたるその勉強ぶりである。まず久留米で兵法・軍学を学び、長崎で蘭学、天文学、地理学を学ぶ。玄水は解剖にあたっても入念な準備を行い、たった一日で行った解剖には中津城下のみならず、遠くは大阪から坂金吾という医師が見学に来ている。
 解剖は中津藩の画員が彩色入りで解剖図を描き、玄水は「解剖図説」という解剖の記録を執筆し、序文は日出の帆足萬里が書いている。

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田中信平の伝承料理を復元(大分合同新聞夕刊 2012.3.23)

 筆者が会長を務めている中津文化財協議会主催で、毎月一回開催している文化講演会が2月17日、サンリブ(JR中津駅前)2階研修室で行われた。
 その後、豊後町の“朱華(しゅか)”で田中信平(1748~1824)の伝承料理を食べながら役員会が行われた。ちょうどひな祭りの時季にふさわしいカラフルな料理に一同、舌鼓を打った。江戸時代の文政年間に、このような芸術的な日本料理が中津で作られていたことに、みな大いに感動した。
 田中信平は通称“田信(でんしん)”と呼ばれ、蘭方外科医として中津市京町南部公民館付近で日常診療をする傍ら、料理や書画などの世界で広く活躍した文化人であった。
 筆者は恩師松山均先生と一緒に、寺町大法寺の墓地で、天然痘で死去した辛島正庵の長男、章司の墓に『七十一翁 田信子孚(しふ)』の文字を見つけたことから、関心を持つにいたった。
 田信は1784年には長崎に留学して「卓子式(たくししき)」という卓袱(しっぽく)料理書を出版した。その本で中津にケンチンやカステラなどのお菓子を紹介し、今日にいたっている。 耶馬渓を全国に紹介した頼山陽や倉成龍渚(りゅうしょ)など天下の文化人との交友が広くあったことは、長谷川保則氏著の「田信傳」にも記載されている。墓は寺町本傳寺にある。

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倉成龍渚と頼山陽(大分合同新聞夕刊 2012.2.20)

 昨年10月15日から12月18日まで、中津市の耶馬渓風物館で「羅漢寺展」が開催された。
 羅漢寺の石仏群が南北朝期の中国と日本の文化交流を示すものとして明らかにされたこと、1943(昭和18)年の火災を免れた仏画などの宝物が室町幕府の管領細川頼之によって奉納されたものであることなど、羅漢寺の歴史的価値の大きさ示す貴重な展覧会であった。
 同時に展示されたのは、中津藩儒、倉成龍渚(くらなりりゅうしょ)のご子孫である京都の医師、岡田安弘氏蔵の「耆闍崛山記(ぎしゃくつせんき)」と頼山陽の「耶馬渓図巻記」。
 耶馬渓の自然の美しさを、龍渚が江戸で山陽の父、頼春水や細川平洲などの文化人に紹介したところ、この文章をみた山陽が耶馬渓を天下無双の景として広く紹介したことを証明するに足る、優れた対照展示となっていた。
 龍渚はこれを機に平洲の弟子、米沢藩主上杉鷹山にも招請されて儒学を講じ、ますます学者としての名声を高めた。中津藩主奥平昌高は藩校進脩館を創設し、龍渚を初代教授として迎え、中津藩士のみならず全国からその声望を慕って勉学に来た人々を歓迎した。
 岡田氏この展示会を楽しみにしながら直前に亡くなられたことは誠に残念なことで、心から哀悼の意を表明したい。

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八面山と戦争(大分合同新聞夕刊 2012.1.11)

 毎年、12月8日になると、真珠湾攻撃の犠牲者追悼のニュースがマスコミに報道される。
 折しも、米国・ウィスコンシン州のマイク・バーグ氏という方から「1945年5月7日、八面山で撃墜されたB29”エンパイヤー・エクスプレス”について研究しているので、乗員の写真などを資料として送ってほしい」というEメールが届いた。
 毎年行われている八面山平和公園の慰霊祭に、戦死者であったルイズ・バルサー軍曹のご子息ジェリー・バルサー氏が、2005年5月に参加されたことを覚えているが、その時にお世話したバルサー氏から筆者のことを聞いての依頼だった。
 さっそく、平和公園の保存活動を続けておられる楠木正一氏から平和公園資料館の写真や資料の説明を受けたが、あらためて日米の戦死者の若々しい顔に強く胸を打たれた。「屠龍」という戦闘機で体当たりして戦死した村田勉曹長(当時27歳)の遺書も、涙なしには読めない。
 平和公園にある戦死者たち11人の出身の各州から送られてきた石のモニュメントや、墜落地点の記念碑や記念樹の写真に英語の説明をつけて送ったところ、丁寧なお礼の手紙が届いた。近いうちに本にして米国で出版されるとのことであった。
 戦争や災害の重さが、ずしっときた年末であった。

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【2011年】
大分県病院学会を開催(大分合同新聞夕刊 2011.12.2)

 去る11月20日、別府市のビーコンプラザで筆者が会長を務める第29回大分県病院学会が、2,500人の医療関係者が参集する中で開催された。
 特別講演は、4つの病院団体のリーダーでもある全日本病院協会の西澤寬俊会長で、「全日本病院協会の今後の活動方針と医療情勢』と題して、詳細に分かりやすく2025年までの医療の展望と問題点について述べられた。
 予想される超少子高齢社会に対応するために「病院のあり方に関する報告書」を1998年以来6版発刊し、理想的な医療介護の在り方と社会変化を踏まえた現実的対応を行うべきことを強調された。
 大分県病院協会からは「国際的にも患者負担率の高い中で、さらに外来受診ごとに定額負担をさせることに反対する。本来は最終消費者が支払うべき消費税を医療機関が総収入の平均で2.2%も支払っている現状で、消費税が10%になれば医療崩壊に拍車がかかるので、診療報酬に原則課税すべきである」という決議文が西澤会長に手渡された。  続いて、東日本大震災で支援活動を行った県下の4人の方々の迫力ある現状報告や、今後の災害医療についてのシンポジウムが開催された。午後からは医療介護の安全・サービス向上・システム改善の活発な報告も行われた。

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三浦梅園と藤田敬所(大分合同新聞夕刊 2011.11.1)

 中津市鷹匠町の東林寺という禅寺に土居震發(どいしんぱつ)という漢学者の墓がある。京都の伊藤東涯の弟子で、丹後宮津で奥平侯の侍讀(じとう)となり1717年、奥平昌成の中津藩への転封に従って中津に移住、中津漢学の開祖ともいえる人物である。
 最も高名な弟子として藤田敬所が知られている。敬所の学問は京都古学派の流れをくみ、僧侶、医師、市井の学徒に至るまで、多くの人々がその学風を慕って集まるようになった。
 1752年には中津藩の文学教授に任じられるほどの名声を得た。門人の一人に、昨年「マンダラゲの会」で取り上げた倉成龍渚(りゅうしょ)がいる。奥平昌高侯が創設した藩校「進脩館」の初代教授で、その特別展が近日中に羅漢寺の「風物館」で開催されるという。
 もう一人の門人に杵築の医師で哲学者として高名な三浦梅園がいる。梅園は17歳の時に30日間、4年後に30日間、敬所の所で学び、「花を育て楽しむように、子供を引っ張っていく。なお春の日のように暖かく、秋の露のように厳しいものがさまざまと思いだされる」と後に述べている。
 今月12日、大江医家史料館にて「マンダラゲの会」が開催され、立命館アジア太平洋大学孔子学院院長の神戸輝夫氏(大分大学名誉教授)が「三浦梅園と藤田敬所」について講演されることになっている。

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プラハで感じたこと(大分合同新聞夕刊 2011.10.1)

 去る9月上旬、チェコのプラハであった国際整形災害外科学会に出席した。プラハはボヘミア王国の首都で、9世紀半ばから城の建築が始まり、特に1348年、神聖ローマ皇帝に就任したカレル4世の治世に現在の美しい城下町がほぼ整えられた。
 第2次世界大戦でもそれほどの被害がなく、町全体が世界遺産になって世界中から観光客が集まっていた。学会でもボヘミアのフォークダンスが開会式で披露され、1968年の「プラハの春」以来、自由と民主主義の国を目指して、困難な闘いと国民の努力があったことが強調された。
 友人のクルーガ―博士の案内で市内を巡ったり、医療情勢や社会情勢を詳しく知ることができた。医療費の患者負担は極めて低く、その代わりに消費税が19%ということであった。
 その前の8月21日にあった、日本医師会と4病院団体協議会による「医療と消費税」をテーマとした市民公開セミナーを思い出した。
 日本では病院が検査器などを“仕入れる”際に課税される消費税を、患者さんが支払う診療報酬に転嫁できない仕組み。従って現行5%の消費税率でも受け取る診療報酬全体額の2.2%に相当する額を病院が負担している。社会保障を拡充するという名目で仕組みを変えないで10%に上げれば、病院の負担が増し、医療崩壊にさらに拍車がかかるという話をきいてぞっとした。

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前野良沢と一節截(大分合同新聞夕刊 2011.8.30)

 中津藩医・前野良沢(1723~1803)が盟主となって西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』は、真の意味で、蘭学の幕開けであり、日本の科学史はここに始ったといっても言い過ぎではない。
 良沢は伯父の淀藩医・宮田全沢に「世の中で廃れそうな芸能を大切に保存して末々までも絶やさぬようにすべき」と訓育され、当時廃れていた「一節截(ひとよぎり)」という竹笛を練習して、宗勲流の名手となり、同じ中津藩の武士でいとこの簗(やな)次正に伝授した。
 この笛は次正から、さらに中津藩の神谷潤亭という医師に伝授され、中津で普及したものとみられ、簗家に1本、村上医家史料館に4本残っている。一節截は尺八よりも細く、吹き口はケーナとよく似ているが、前穴は4穴、後穴は1穴である。
 奈良朝時代に中国より伝来し、安土・桃山時代に大森宗勲が大いに広め、江戸初期に流行したが、尺八の流行で廃れてしまっていた。このたび千葉県柏市の一節截研究家・相良保之氏が当院で開催されている一節截の練習会を訪れ、1664年に著された中村宗三の書『糸竹(しちく)初心集』」という邦楽の入門独習書をくださった。その入門書を細田富多氏が解読してはじめて一節截の演奏法が明らかになった。

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九州高気圧環境医学会の成果(大分合同新聞夕刊 2011.7.25)

 去る7月2日、当院の田村裕昭院長を会長として、第12回九州高気圧環境医学会が中津市で開催された。
 上海交通大学の石中教授は、中国では、チベットの5200メートルの高地に造られているダムの管理のために、低圧タンクや実験場所を現地の高度に近付けながら、50メートルの高地潜水に挑戦する実験を行っていると報告。前人未到の高地潜水という未来に懸けるすさまじいエネルギーを感じた。資源やエネルギーの獲得のために多額の研究費が投入されているとのことであった。
 宇宙航空研究開発機構の嶋田和人医師は、NASAの宇宙センターで代々の宇宙飛行士たちの健康管理を行ってきた経験から、宇宙滞在中の医学的問題、その解決法が地上の寝たきり患者を予防することにも応用できるという夢にあふれた講演であった。
 東京医科歯科大学の柳下和慶医師は、今年から保険適応になったコンパートメント症候群(打撲や激しいスポーツで四肢の筋肉が腫脹し、激しい痛みを伴う疾患)に対して、効果的な高気圧酸素治療の原理と研究成果、臨床成績を述べ、さらにスポーツ選手の障害に対しても多くの国際的な研究が行われていることなど、高気圧酸素治療の明るい未来を語った。
 大震災と福島原発で暗い話題が多い中、ひとときの夢あふれる学会であった。

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三陸海岸大津波(大分合同新聞夕刊 2011.6.24)

 去る6月1日、岐阜市で開催されたアジア・太平洋整形外科学会の脊椎・小児整形外科合同学会(清水克時=脊椎、亀ヶ谷真琴=小児各会長)の座長を依頼され、出席してきた。
 開会式は国際学会としては異例の各国の津波災害の報告があった。日本からは、去る3月5日当院の30周年記念であいさつに来られ、帰られた直後に被災された国分正一東北大学名誉教授・西多賀病院院長の東日本大震災の報告があり、インドネシア、マレーシアの代表からは10万人を超す死者を出した大津波の報告があった。
 紹介された外国のテレビ報道は無数に横たわる死体やそれを土中に埋葬するシーンなどが続き、恐るべき大惨事が発生していたことを証明していた。外国の報道に比べると日本の報道は抑制が効いてはいるが、現地にボランティアで行った人から聞く話はリアルで胸に迫るものが多い。
 蘭学の鼻祖、中津藩医前野良沢について「冬の鷹」という歴史小説を著した作家の吉村昭は、日本医史学会でもたびたび講演に呼ばれるほど史実に密着した小説を書くことで知られている。1970年に出版された記録小説「三陸大津波」は無数に襲ってきた津波のすさまじさと、その津波と闘う人々の声を記録している。人間と自然との調和、あつれき、きしみが無言のうちに迫ってくる。

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桜ともみじの里作り(大分合同新聞夕刊 2011.5.24)

 中津市では中津まちづくり協議会理事長で、中津・桜ともみじの会実行委員長の愛宕久和商工会議所会頭をリーダーとして2005年以来、中津市をはじめ、さまざまな団体や個人が、毎年桜ともみじの植樹事業を展開。累計で、桜11,922本、もみじ12,368本になった。
 去る5月15日は大貞総合運動公園周辺に400人を超す参加者が集まり、爽やかな風を受けながら、桜に肥料を施した。
 親子連れや職場の友人たちとにこやかに会話を交わしながら手入れをしている多くの参加者を眺めていると、この2ヶ月間の東日本大震災のすさまじいありさまをしばし忘れた。
 中津ロータリークラブは1994年以来、環境問題シンポジウムや紙のリサイクル、植樹活動に取り組んできた。台風で倒木した薦神社の森にクヌギやカシを植えたり、三沢中学校跡地の大貞公園には中津中央、中津平成ロータリークラブとともに、花の咲く木々を毎年植樹してきた。また、各事業所で鳥が運んできた種から芽を出したものを育てて移植する自然木の実生運動も行ってきた。
 植樹の手入れをしながら、今ほど自然の恵みと猛威を感じる時はないと思った。日本はエネルギー政策や環境問題で最大の転機を迎えつつある。

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東日本大震災に支援を(大分合同新聞夕刊 2011.4.18)

 3月11日、東日本をマグニチュード9.0という巨大地震が襲い、さらに大津波、福島原発の事故という三重苦とのとてつもなく困難な闘いが行われている。
2万7000人を超した死者・行方不明者と、数十万人ともいわれる被災者の方々のことを考えると、何を書いてよいやら言葉を失うのみである。
 東日本各地で忍耐強く復旧に当たっている自衛隊、消防隊、警察、政府や自治体の職員、発電所の作業員、内外からのボランティアの方々には心から敬意を表したい。
 中津ロータリークラブでは安藤元博会長の指揮の下に細川唯、中野登会員が商工会議所、青年会議所と連携し、市民にも呼びかけた。段ボール400箱分の食糧、衣類、水などをトラックに詰め込み、矢崎和広会員ら5人が交代して運転し、現地に届けて3月30日にその報告会があった。
 現地は想像を絶する被災状況だったという。ライフラインはなんとか確保されつつあるが、避難場所における衛生環境の悪化、感染症の増加、医薬品の不足などが報告されており、一日でも早い復旧と復興を願うのみである。
 いまこそ国民が心を一つにして叡智と勇気をしぼって、この苦難を乗り越えよう。

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創立30周年と恩師の教え(大分合同新聞夕刊 2011.3.15)

 1981年3月5日、くしくも1771年中津藩医前野良沢が江戸・築地の中津藩中屋敷(現在の聖路加病院)で「ターヘル・アナトミア」の翻訳を開始したのと同じ日に、わずか15名のスタッフとともに、当院(川嶌丸)は船出した。
 まさに、杉田玄白が「蘭学事始」の中で述べたように「艪舵無き船が大海に出でし」状態であった。その時に筆者を支えて下さったのは恩師、天児民和九州大学名誉教授(前九州労災病院院長)であった。「開業するならば、今までの研究が活かされるような世界水準の医療をやってみたらどうか」と、たびたび当院を訪れて下さり励ましてくださった。
 開業しながら毎年国際学会に発表したり、日本骨・関節感染症学会、日本高気圧環境・潜水医学会、日本医史学会、日米宇宙・潜水・高気圧環境医学合同学会などの学会を主催してきたことは、今や300人を超えた職員にとっても大変なハードワークであった。
 このたび3月5、6日の創立30周年記念行事に、お客さんを内外から大勢迎えて思ったことは、困難な道であっても志を貫くこと、人と人の絆を大切にすること、地域社会に奉仕することの重要性であった。

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医師不足をどうするか?(大分合同新聞夕刊 2011.2.25)

 去る1月28日、九州各県と岡山、広島、山口各県の病院協会の役員が出席する連絡協議会に出席した。どの県の代表も当面する課題が医師不足の話題であった。
 1983年以来、医療費と医師数の抑制がはかられた結果、医療費は先進7カ国中で最下位、医師の数もOECD(経済協力開発機構)に加盟する30カ国中27位というありさまである。国は医師数の増加、医療費の自然増を認めるという方針転換を行っているが、現在のところ焼け石に水である。
 人口10万人あたりの医師数を見ると、東京、京都、福岡では260人から280人もいるが埼玉、茨城県では134人、150人と極端に少ない。せっかく地方に医大ができたにもかかわらず、初期臨床研修制度が施行されて以来、卒業生の6~7割が都会の病院に行ってしまい、地方はあいかわらずの医師不足である。日本医師会の中川俊男副会長は地域の大学を中心に8年かけて地域で医師を育てようと提案している。
 大分県内129民間病院の9割が加入している大分県病院協会傘下の病院も、魅力ある研修カリキュラムを作って、県内で頑張る医師の育成に協力したい。3月12日には県医師会館にて公開講座も企画している。

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羅漢寺と倉成龍渚(大分合同新聞夕刊 2011.1.12)

去る十一月十三日、中津市鷹匠町の東林寺で開催された「マンダラゲの会」にて、神戸輝夫大分大学名誉教授の特別講演があり、中津藩校進脩館初代教授であった倉成龍渚(くらなりりゅうしょ)こそ耶馬渓を天下に紹介した最初の学者であると述べられた。
龍渚は一七九四年、羅漢寺周辺を訪れ、「耆闍崛(ぎしゃくつ)山記」を書いて翌年、江戸に赴き、親交のあった頼春水などに見せたという。春水は当然、その息子頼山陽にも見せたと思われ、山陽はのちに耶馬渓を訪れた時に「耶馬渓図巻記」の中で実在する山水の世界こそ耆闍崛山(羅漢寺)であると述べ、天下無双の景観として耶馬渓を讃えている。
「耆闍崛山記」の実物を京都在住の医師、龍渚のご子孫である岡田安弘氏が当日持参しており、会場に展示されたその長大な巻物に参加者は圧倒され、口ぐちに感動の言葉が交わした。年末に地元の中島和貴氏、河野博昭氏のご案内で羅漢寺を訪れ、あらためてその壮大なる自然と風景に溶け込み、奥深い歴史を秘めた羅漢寺の素晴らしさに一同感動を覚えた。
中津の村上医家九代目の田長が玖珠の村上作夫らと「水雲館」という私塾を羅漢寺の指月庵跡に創設。「鎮西義塾」へと発展させた理由はこの羅漢寺の景観と歴史に根差していたことをあらためて感じた訪問であった。

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